モハメド・アリを描いた小説『ファイト』の、その構成にまず驚いた。実際にアリが行った試合のうち四つが章立てになっている。第一章は一九六四年に行われた、ソニー・リストンとのヘビー級世界タイトルマッチだ。
試合前、勝利はないと見なされながらも、徹底的に相手を挑発し、侮辱し、八ラウンドKO勝利を予告していたアリがリングに上がり、第一ラウンド開始のゴングが鳴り響く。アップテンポのリズムを刻むような文体で、試合展開が描かれる。パンチの種類、防御テクニックについてほとんど説明がなされないにもかかわらず、いや、説明がないからこそ、止まらない動きが文章から立ち上がってくる。アリの試合を実際に見たことがなくても、華麗な脚捌きやそのリズム、高速の左ジャブが見えてくる。ラウンドが進むごとに温度の上がる熱狂が伝わってくる。
第二試合は七一年のジョー・フレージャー戦。六七年からの約三年間、ベトナム戦争への徴兵拒否のため有罪判決を受け、チャンピオンは剥奪、ライセンスも取り上げられた。その間のことを、小説はこの第二試合で触れる。……といった具合に、小説が描き出すのはあくまで試合であり、動きである。アリの思想、信念、世界観、家族、など、試合外のことには重点が置かれていない。それがこの小説のユニークな点だ。私はよくボクシング観戦にいくのだが、応援する選手のプロフィールや戦績は把握していても、その選手の内面については知らない。インタビューで答えていることだって、本音かどうかわからない。それでも、試合のさなかにちらりと見えることがある。思想や信念といった大義名分ではない、本人ですら気づかないような負けん気ややさしさ、繊細さや人間離れした芯の強さが、激しい動作の隙間にどうしようもなく見えてしまうことがある。この小説はそんなふうにアリを描く。実際に彼が放った膨大な言葉や行いから、自伝的に描くのではなくて、闘うアリが、その華麗なボクシングから何を観客に見せたのかを描く。
その闘いぶりから立ちあらわれるいちばん大きなものは怒りだ。アリにとっての闘いは、勝敗であるとともに、差別や偏見、無理解との闘いだった。だから負けるわけにはいかなかった。たたみかけるような演説調の挑発も、ビッグマウスも、そのまま彼の背負うものの大きさに比例する。けれどそれよりさらに先までを、この小説は見せるような気がする。
第三試合(第三章)のある一瞬、ボクサーにしか見えない刹那が描かれている。怒りをも、背負うものをも超越した刹那だ。でも、読む者ほどにはアリはその刹那に心を震わせてはいない。もっと先を欲しているからだ。そんなふうに私には見えた。もっと先――そこにあるのは、完璧な肉体ではないか。傷つかず、疲れず、老いず、朽ちない肉体。彼の神ほど絶対的に、そんな完全無欠な肉体で闘う瞬間は存在する、とアリは信じていたのではないか。自分こそはその瞬間を、幾度も幾度も、永遠かと思えるほど幾度も、つかまえられるはずだ、と。四つの試合から、私が見てとったのはそのことだった。だから、かつてのスパーリング相手と闘う最終章はかなしかった。けれども、怪我からも老いからも逃れられないその体には、それこそ永遠に、完璧な瞬間が幾つも残っているはずだと、私も信じていることに気づくのだ。