身の回りのものすべてが僕の養分となり作品に生かされている
――監督は詩人としても活躍していらっしゃいますが、文学において描写できることと、映像言語によって描写できることとの大きな違いをどうお考えですか。
ビー・ガン 正直、両者に大きな違いはないと思います。僕自身あまり区分して使ってはいません。脚本を書くときは文学的な部分も必要だし、逆に映画の中で必要だとなれば文学としての言語を用いることもあります。映画で描けるポエジーと、文学で描けるポエジーというのは結果として似かよったものが現れることが多い。ただ生産過程はかなり異なります。映画の製作は現実的で具体的でなければいけない。一方文学はより抽象的で美なるものから成立します。
――ご自分についても、詩人と映画監督という肩書きについて明確な違いは意識していない、ということでしょうか。
ビー・ガン もちろん区分するつもりはありません。それに僕が自分から詩人だとか映画監督だと名乗ったこともないですし。僕が今、職業的に監督と呼ばれるようになったのは、多くの仲間と一緒に仕事をしうる状態に達したからです。映画を撮り始めたときは、自分の職業が何なのかは曖昧なままでした。
――映画監督には、過去の様々な映画を山のように見ながら自身の作風を培っていく人が多いと思いますが、ご自分の作風をつくりあげたのはどのような映画作品だったと思いますか。あるいは映画よりも文学や別のものがもたらした作用の方が大きいのでしょうか。
ビー・ガン 最初から自分の作風を自覚することはできません。あと3本くらい作り続けたときに初めて「ああ、自分の作風とはこのようなものだったのかな」と気づき、受け入れるかもしれませんが。もちろん過去の映画から学習したことは多いですが、インスピレーションを受けるのは映画に限りません。たとえば近所の人や飼っているペット、時には玄関に置いた植物がその源になります。我々は日々、目や耳を使ってたくさんの情報を受ける。そうした身の回りのものすべてが僕の養分となり作品に生かされているのだと思います。