「演奏やれ!」野次る観客に坂本は……

 前半では、雑誌の写真コンテストで入選した人たちの表彰式が行なわれたほか、司会をスネークマンショーなるグループの咲坂守と畠山桃内(ももない)が務めながら、YMOをはじめ、サンディー&ザ・サンセッツ、シーナ&ザ・ロケッツらゆかりのミュージシャンが次々に出演した。しかし、YMOの3人はシュールな余興などを繰り広げ、一向に演奏を始めない。いざ楽器を手にしても、アコースティックのギターで、アメリカのフォークグループ、キングストン・トリオの「花はどこへ行った」や「グリーン・バック・ダラー」をカバーしたり、自分たちの代表曲「中国女」のアコースティックバージョンを披露したりと、いつもとは趣向が違った。

1952年生まれの坂本龍一。今年68歳を迎えた。問題の「写楽祭」のさいは28歳だった ©️文藝春秋

 じつはちゃんとしたコンサートは、イベントの終盤にサプライズで予定されていたのだが、そうとは知らない観客はしびれを切らし、ついには「演奏やれ!」と野次を飛ばし始める。これに怒った坂本龍一(このとき女装姿で登場していた)は、冒頭にあげた「うるせーぞ、この野郎」や「ぶっ飛ばすぞ、この野郎」などといった言葉で応酬したのだった。高橋ユキヒロもたまりかねて「黙って聴いてなさい、ちゃんとやるんだから」と観客をなだめた。あまりの混乱ぶりに、スポンサーの小学館の関係者や、とある大物写真家が途中で帰ってしまったという。それでもラスト40分のコンサートはおおいに盛り上がったというから、当時のYMOの勢いをうかがわせる。

1947年生まれの細野晴臣。今年7月に73歳になる。「写楽祭」の当時は32歳だった ©️文藝春秋

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「写楽祭」を演出したのは、スネークマンショーのプロデューサー役だった桑原茂一である。ステージで司会を務めた咲坂守と畠山桃内の正体は、DJの小林克也と俳優の伊武雅刀だったが、当時その素性は伏せられていた。スネークマンショーは1976年にラジオ大阪の番組として生まれ、78年4月からはTBSラジオに移って放送を続けていた。番組は、先鋭的な選曲による音楽と、政治からドラッグまでをネタにしたきわどいコントで構成され、一部で支持を集める。YMOの細野と高橋もスネークマンショーのファンだった。彼らは当時、まとまったアルバムを制作する時間がなかったため、スネークマンショーにコントを提供してもらい、ギャグと音楽で構成されるミニアルバムの企画を思い立つ。桑原もこれを快諾し、ラジオで放送されたコントのテープを提供するほか、YMOとスネークマンショーのメンバーが互いに新作コントと楽曲「タイトゥン・アップ」(アメリカの音楽グループ、アーチー・ベル&ザ・ドレルズのカバー)に参加する形で、全面的なコラボレーションに踏み切った。「写楽祭」の演出の依頼を受けたのも、このアルバムの制作途中だった(※3)。