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〈94年、目黒区八雲の都立大附属高校に進学。〉

 私服という点が気に入ってこの高校を選んだのに、世間はコギャルブームで、ブレザーにミニスカートにルーズソックスという制服風ファッションで通う子が多かったんです。私は自転車通学だったし、服装なんてどうでもよくなってしまい、ジャージで通っていました。

 

一人暮らし(?)を試みるも何かと理由をつけて、実家に居付いた

 私は雑誌の「オリーブ」や「キューティ」、岡崎京子や朝倉世界一の漫画、渋谷系の音楽にハマっていましたが、ほかの子たちはサーファーの雑誌を読んで、プリクラを撮って、パラパラ踊って……という感じでした。そのうち自分とは違うタイプの女子高生に興味が湧いてきて、彼女たちの生態を観察してコギャルを主人公にした漫画『女子高生ゴリコ』をプリントの裏に描くようになりました。

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 高2のとき、代ゼミの美術系の予備校に通い始めました。予備校には、サブカルの話が通じる友達が多くて高校よりも楽しくなりました。高校では話題にならなかった『ゴリコ』も予備校ではウケたんです。『ゴリコ』のコピーをいろんな出版社に送ってみたら、高3のとき、河出書房新社の雑誌「文藝」からインタビューの依頼がきました。新宿のパーラーで取材を受けたんですが、緊張ですごい汗をかいて、終わって立ったらソファにお尻の形に汗じみができていました。

 

〈97年、多摩美術大学の2部に合格。〉

「文藝」のインタビューを読んだコラムニストの中森明夫さんから連絡をいただき、大学1年のとき「SPA!」で紹介され、97年10月に『女子高生ゴリコ』の単行本が出ました。小泉今日子さんと永瀬正敏さんに帯文を書いていただきました。

『ゴリコ』が出てからは、本当にいろんな仕事をやりました。T.M.レボリューションやIZAMと対談したり、「女子高生果汁100%」という番組で司会をやったり、お笑い芸人とイベントに出たり、いくつものニュース番組にも出ました。両親は「業界人になっちゃって」という感じで引いて見ていましたね。

 本の発売から1年近く経ち、『ゴリコ』を描き続けることに不安を感じていた頃、憧れの雑誌「オリーブ」からお声が掛かり、98年7月号から「しまおまほのひとりオリーブ調査隊」が始まりました。この連載のおかげで、小学生の頃に作っていた手書き雑誌の感覚を思い出して楽しく仕事ができるようになりました。

 

〈1年留年して2002年に卒業。04年、一人暮らし(?)をスタート。〉

 一人暮らしがしてみたくて、経堂の駅の上にあった古い1Kのアパートを勝手に決めてきて、父に保証人になってもらいました。このアパートには以前、植草甚一さんも住んでいたそうです。

 実家から近かったので、部屋の荷物を少しずつ移動させて引っ越しました。実家の服をダルマみたいに着込んでアパートに帰ったり(笑)。でも結局、「ご飯作るのが面倒臭い」とか理由をつけてほぼ実家にいました。

 家具はテレビとベッドだけで男の子も呼べないくらい荒んだ部屋でしたね。料金未納で水道は止められるし、家賃も度々滞納していました。

 結局、そのアパートの取り壊しが決まり、2年くらいで完全に実家に戻りました。