優しい言葉が沁みた、祖母との別れ
〈05年、実家で同居していた祖母が在宅療養の末、帰らぬ人に。〉
20歳すぎても祖母の膝枕で耳掃除をしてもらっていたし、本当に悲しかったです。でも、父方の祖母が「一緒にいた時間が長いぶん辛かったでしょう」と電話をくれたことが、すごく嬉しかった。祖母同士はほとんど会ったことがなかったし、父方の祖母は、プライドの高い人だったぶん、優しい言葉が余計に沁みました。
当時父方の祖母は同居していた娘のマヤが2002年に52歳で亡くなっていたので、故郷の奄美大島で一人暮らしをしていました。
2007年に「もう祖母も米寿だし、心配だから交代で様子を見に行くことにしよう」と父が提案し、3月末に私が奄美に行くことになりました。
奄美に着いて祖母の家の呼び鈴を押しても、何度電話しても出てくれない。その日は宿に泊まって翌日警察に同行をお願いし、苦労してカギを壊して中に入ったら、祖母は亡くなっていたんです。
葬儀や家の整理などで2週間ほど家族で島に滞在し、その後、私と母は先に東京に戻りました。父は「奄美の親戚にマクをあげてから東京に戻るね」と言っていたんですが、お骨とマクと一緒に東京に帰ってきました。マクはうちの犬になり、庭の犬小屋で元気に暮らして、2018年に亡くなりました。
〈15年4月、長男が誕生。〉
生まれる少し前から、子供の父親と世田谷の弦巻にある古いマンションの1階を借りて、一緒に暮らし始めました。入籍はせず、“事実婚”状態でした。息子は無事に生まれたんですが、部屋のオーナーの事情で、1年も経たないうちに引っ越すことになりました。
立ち退き料の交渉をしつつ慌てて部屋を探して、近所のマンションの6階に越しました。15畳ほどのリビングに畳の小上がりがあって、洋室2部屋にキッチン、トイレ、風呂。南向きで日当たりもよくて、住人で集まって夏祭りをやるようなアットホームなマンションでした。
1年半くらいここで暮らしたんですが、別居することに。私と息子は実家近くのマンションに引っ越しました。昔友達が住んでいたマンションで、遊びに行ったときにいい部屋だなと思っていたんです。今もそこに住んでいますが、とても気に入っています。子供の父親は朝バイクで家に来て、息子を保育園まで送ってくれます。
子供が生まれたとき、「育児エッセイを書きませんか?」というお話をいくつかいただきました。でも、自分の本来すべき仕事とはちょっと違うな、とお断りしました。今後の自分の在り方を考えて「やっぱり踏み込んだ創作をしたほうがいいのかな」とも思いました。それで「小説を書きたい」と伝えて、「文學界」で連載できることになりました。先日出た『スーベニア』は、その連載を加筆修正した、私にとって初めての長編小説です。
小説のモチーフは「自分」です。子供を産んでも入籍できなかった「はっきりしない自分」を描きたかったし、うまくいかないこと、正解がなかなか出せないこと、人生のそんな部分を描きたいと思ったんです。
息子も5歳になり、この何年かで気分も環境も変わりました。現在も豪徳寺にある「旧尾崎邸」は近々取り壊しの話が出ていると聞きました。両親はいつかまたあの部屋で暮らしたいと思っていたようなのですが……。でも実家の景色は、子供の頃からほとんど変わっていません。庭の梅の木が去年の大型台風で倒れたのと、テレビが薄型になったくらいです(笑)。
(取材・構成:臼井良子 写真:鈴木七絵/文藝春秋)