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しまおまほ、「家」を語る。「私を作った豪徳寺のアパート、変わらない世田谷の実家……」

しまおまほの「新・家の履歴書」

2020/06/08
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「自分」をモチーフにした、初の本格長編恋愛小説『スーベニアを上梓したばかりのしまおまほさんが、自己形成に影響を及ぼした家のこと、小説『死の棘』で知られる祖父・島尾敏雄とその妻ミホの死、家族の話……を語ります。

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 実家の景色はほとんど変わりません。テレビが薄型になったくらい(笑)。

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 母が一人暮らししていた御茶ノ水のマンションに父が転がり込んで、その3カ月後に妊娠がわかり、入籍の4日後の1978年10月14日に私が生まれました。

〈両親は写真家で、父方の祖父は『死の棘』で知られる作家の島尾敏雄というしまおまほさんは、執筆活動のみならず、ラジオの世界でも活躍している。〉

しまおまほさん

私を作った場所、豪徳寺の「旧尾崎邸」

 私が生後2カ月のときに世田谷区豪徳寺のアパートの2階に引っ越して、8畳1間に親子3人で暮らすことになりました。政治家の尾崎行雄が住んでいた渋谷の洋館を移築した「旧尾崎邸」と呼ばれるアパートで、今まで住んできた家の中で一番印象深く、「私を作った場所」だと思います。

 高い天井はペンキが所々剥げていて、大きな窓にはカーテンの代わりに父がアメリカンスクールのバザーで買ってきた巨大な世界地図を掛けていました。テレビがなかったので、廊下の窓から隣家のテレビを双眼鏡で眺めていました。

 部屋にはガス台のみ。炊事場も洗面台もなかったので、水を使うときは1階にある共同の水場に行かないといけませんでした。もちろん風呂なしで、トイレも1階に共同のものがあるだけです。

 当時の父は、お酒を飲んでよく吐いていたんですが、1階のトイレに行くのが間に合わないから洗面器を抱えて吐くんです。用を足すのも私の「おまる」でしていました。

 私の服はバザーで買ったものか、お下がり、あとは祖父のステテコ(笑)。髪形は前髪ぱっつんの坊ちゃん刈りで、小学校に上がってもしばらくは父に散髪されていました。

 幼稚園は、室内に温水プールがある世田谷線上町駅の青葉学園。近くのモダンバレエ教室にも通い、小3まで続けました。

 

母の実家に転居。その年、祖父・島尾敏雄の訃報が届いた

〈85年、世田谷区立城山小学校に入学。翌年、母の実家を二世帯用に改装して引っ越すことに。〉

 母の実家は旧尾崎邸の近所だったので、もともとお風呂を借りによく通っていたんです。母の実家のほうが小学校に近かったこともあり、引っ越しました。両親は今もこの家で暮らしています。

 1階にはリビングと両親の寝室と台所とお風呂とトイレと、両親が写真の現像に使う暗室。中2階に小さな父の仕事部屋と私の部屋。2階には祖父母の部屋と台所とトイレ。そんな間取りでした。

 小2の夏休みに初めて1人で飛行機に乗り、父方の祖父母と父の妹である叔母のマヤが住む鹿児島へ行きました。その3カ月後の11月、両親が香港に旅行中で不在のときに祖父・島尾敏雄の死の知らせが届いたんです。再び1人で鹿児島に飛び、香港から駆けつけてきた両親と落ち合いました。

 両親が香港に行っていたのは、知人の香港人の結婚式に出席するためでした。小学生の頃、父が保証人になっていた関係で、香港からの留学生がよく家に来ていたんです。

 両親は旅行が多く、リビングの棚には海外で買ってきた思い出の品がたくさん並んでいます。玄関の表札は、私が小4のときに書いたものを今も使っています。「なんでも教えちゃう本」という雑誌を手書きで作って、学級文庫に置いていたのも小4だったかな。漫画を描いたり、クラスの子に「好きな給食は?」「一番面白い子は?」みたいなアンケートをとって掲載したり。

 テレビやラジオの番組も作って遊びました。「光GENJIのコンサート会場から中継です」と言ったあとに小豆でザーッザーッと音を立ててファンの歓声を表現するなど、結構凝っていたんです。