なぜ安倍首相のリーダーシップが見えないのか?
これほどの“国難”を前にして、なぜこんな「何も決まらない」混乱が起こったかといえば、安倍首相のリーダーシップがまったく見えないからです。
最後に記者会見を開いた6月18日。第2波が見えてきた7月には、31日に立ったままの囲みの会見が行われた程度で、安倍首相が緊急事態宣言をめぐる春先のように、国民の前に立って会見を行うことはありませんでした。「Go Toキャンペーン」をめぐっても、西村康稔経済再生相や菅官房長官しか表に立たず、首相の存在感はまったくありません。
8年間続いた長期安倍政権の特徴は、個々の課題を深く掘り下げることなく、次々に新たな政策を打ち出して「やってる感」を演出してきたことです。多少トラブルがあっても、安倍首相から「次はこれをやる」と指令が出され、新しいテーマを“消費”することで乗り切ってきました。
ところが、今回はコロナという課題があまりに大きいために、安倍首相も次の指令を出せないでいる。その結果、司令塔を失った政府からは一貫性のない政策が小出しにされるだけで、迷走を続けています。
「無理」と分かっていても止められない政治
明治維新以降の日本政治を振り返っても、コロナ禍はこれまで直面したことのないほどの“国難”です。
太平洋戦争は大きな危機でしたが、戦争には勝敗という「終わり」があった。また、東日本大震災などの大災害にも見舞われましたが「復興」という形で「終わり」を描くことが出来ました。いいかえれば、これまで政治は、ゴールとなる目標を立てて、その目標のためにやるべきことを考え、実行してきたのです。
しかし、今回のウイルスは姿も見えず、着実に迫ってくる危機でありながら、「終わり」が見えません。ワクチンはいつ開発されるかわかりませんし、副作用があるかもしれない。そして、経済はどうなるのか。さらにウイルスも、経済も自国にとどまる話ではありません。分からないことだらけなのです。
この「終わり」の見えなさに頭を悩ませているからこそ、政府はオリンピックをいまなお「出来る」とこだわります。コロナも解決できず、オリンピックも出来ないとなると、与党の政治家たちにとっては「国家目標」を失ったも同然。いわば「政治の敗北」です。たとえ内心では無理だと思っていても、「やれる」と目標を掲げざるをえないのです。「GoToキャンペーン」を感染拡大が危惧されながら強行したのも、同じようなことでしょう。
誰もが「厳しい情勢」だと分かっていながら、やめると言い出せないまま事態が進んでしまう――まるで太平洋戦争の国内状況のようだと思う人もいるかもしれません。
しかし、本当の危機に直面した政治の現場では、誰もが本当のことを口に出来なくなってしまうものなのです。何も古い話ではありません。