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 デビュー当初から打って変わって、このころには女性からも人気を集めるようになっていた。女性誌への登場も目立つ。『婦人公論』に掲載された女優の檀ふみとの対談では、檀から「(デビューしてから)自分がどういうふうになるとか、まったく思っていらっしゃらなかったの?」と訊かれ、《無我夢中でやっていたから、全然そういうこと……。今でもあまり考えないね》と返し、さらに次のように続けた。

《あまり、そんな先はね。あした何しようとかよく考えるけど、長期的な展望というのは欠けているの。つまり、自分の人生の構成力ってないんだ。人生という言葉もほとんど使わないしね。嫌いなんだよね、人生なんていうの。この世界、何でいるかというと、これが自分に合っているから六年も続いている。オレが六年も一つのこと続けたことないもの》(※3)

 このときのタモリは、自分が昼の生番組を6年どころか30年以上も続けることになろうとは予想だにしなかっただろう。

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『笑っていいとも!!』のスタジオ(1985年撮影) ©文藝春秋

「お笑いのサラリーマン」45歳の“平凡な毎日”(1990~91年)

『笑っていいとも!』は、タモリが45歳になる前月、1990年7月9日には2000回に到達した。これを記念して、番組レギュラーだった明石家さんまと行なった対談では、さんまから「途中何回かやめようと思ったでしょ」と訊かれ、《初めのころはね。とにかく朝起きるのがつらくて》と打ち明けている(※4)。

『笑っていいとも!』番組レギュラーだった明石家さんまと(写真は1989年撮影)

 しかし、番組開始から8年が経ったこのころには、《9時に起きてね、車の中で新聞読む。10時半にはアルタに着いて、ほかの出演者のリハーサル見て、本番。終わってメシ食って、こうして取材とかがあって、夜はウチに帰るか、飲みに行く…。平凡な毎日ですよ、ホント。お笑いのサラリーマン》と語るまでになっていた(※5)。これは『アサヒ芸能』の取材を受けての発言だが、このとき、『いいとも!』の長続きの理由を《いい加減にやってるから8年も続いたんじゃないですかねえ。いちいち反省したり、悩んでたりしたら続かなかった。ストレスでどうにかなっちゃってるでしょうね》と分析してもいる。

『笑っていいとも!』ゲストの田原俊彦と(1988年撮影) ©️文藝春秋

 1990年の時点で『いいとも!』のほか、テレビ朝日系の『タモリ倶楽部』(スタートは『いいとも!』と同じ1982年10月)と『ミュージックステーション』(番組開始2年目の1987年より司会を担当)に加え、同年にはストーリーテラーを務めるオムニバスドラマシリーズ『世にも奇妙な物語』(フジテレビ系)、音楽クイズバラエティ『タモリの音楽は世界だ』(テレビ東京系)、ラジオではニッポン放送の『タモリの週刊ダイナマイク』もスタートし、より多くの番組を抱えるようになっていた。総工費4億円とも言われた自宅のローンを返すためにもたくさんの仕事をこなさねばならなかったのだろう。返済の終わったはずの現在でも、上記のうちいくつかの番組が続いていることには驚かされるが。