「~する可能性があるから、~を禁止しよう」という差別
「ショタラブドール」騒動でも散見された「子どもへの性犯罪を助長する可能性があるから、子どもを模したラブドールは販売禁止にするべきだ」という主張について、「間違っていない」と考える人はきっと少なくない。私自身も、数年前まではこうした論調について、特に疑問に思うこともなかったと思う。
暴力や差別について学んでいくと、「~する可能性があるから、~を禁止しよう(権利を奪おう)」といった言論は、しばしば特定の属性、特に「マイノリティ」と呼ばれる人々に対する排除・迫害行為を正当化するために多く用いられていることに気付かされる。
例えば「虐待された経験のある子が親になると、自分の子を虐待してしまう危険性があるため、子を持つべきではない」という言説について。いわゆる「虐待サバイバー」と呼ばれ、さまざまな場で過去の経験を執筆している私自身、「加害者予備軍」としてレッテルを貼られ、傷つけられることが決して少なくない。
知人男性から寄せられた好意に応えなかったというだけで、態度を豹変させた相手から「お前みたいなクズの欠陥人間は、一生子どもを作るな。子どもが不幸になるだけだ」と、面と向かって罵声を浴びせられたこともある。
たとえ「虐待の加害者には虐待された経験を持つ者が多い」ことが事実であっても、すべての虐待サバイバーが自分の子に暴力を振るうわけではない。ほとんどの場合、彼ら彼女らは子どもを虐待することもなく、良好な関係を築くことができる。そして、虐待の加害者には、虐待された経験がない者も当然いる。
にもかかわらず、マイノリティである虐待サバイバーのみが「子どもを持つべきでない」といった風に、子どもを持つ権利を他人から侵害されるのだ。
「治療の対象」であるかどうか
自分の性的指向や子ども時代の傷とどう付き合うかについて、本人が不自由なく、かつ他人に危害を加えず生活しているのであれば、私は「治療」を受けるべきであるとも思わない。
私の場合は子どものころから長年心身の不調を抱えていて日常生活すらおぼつかないため、数年前から心療内科に通っている。投薬治療を続けてきたが、対症療法のみでは効果が見られず、現在はこれまでの治療と並行して、カウンセリングによる治療を受けるようになった。
「子どもを持ちたい」という兼ねてからの願望と、自分の中にあるかもしれない「加害リスク」との間で悩み苦しんだ結果、数年がかりで導き出したのが「自分自身の感情をコントロールできるようになれば、子どもを作る」という答えだ。