福島で働く人間を探している
電話は鳴り続けた。暴力団か記者かそのどちらかで、うたた寝すら出来ない。
〈阪神・淡路大震災と同じく、どうせステレオタイプの記事しか書けねぇじゃん〉
居間の食卓にラップトップ・パソコンを持ち込み、テレビの原発事故報道にかじり付きながら、必死に暴力団専門誌の原稿を書いた。原発のことが気になって、暴力団のことなど考えたくなかった。
このときはまだ、自分が1Fに潜入することになろうとは、夢にも思っていなかった。
原発取材のきっかけは、「震災直後、T建設が1Fに大量のダンプを送っているらしい。怪しい」という暴力団からのたれ込みだった。2010年末、ある仕手筋がT建設の株価誘導を行っており、暴力団社会の住民にとって、T建設は注目の的だったのだ。
「ちょっと調べてくんねぇかな?」
指定暴力団幹部からの依頼は、恐喝のネタ探しを手伝えという意味である。曖昧に返事をして電話を切った。断れば角が立つ。かといって引き受けることもできない。
4月15日、いわき市に向かったのは、地元近くに住む友人宅へ差し入れをするためだ。
〈そういえばT建設って言ってたっけ……〉
たれ込み通り、通行止めになっている“いわき四倉(よつくら)インター”から先、1Fのすぐ近くまで通じている高速道路を、たくさんのT建設のダンプが走っていた。どこから土砂を積み、どこに降ろしたのか分からない。もちろん、調べる気もない。
当時は毎日、10本近い電話が暴力団からあった。そのすべてが「福島で働く人間を探している」というものだ。日雇い労働者の供給地として有名な寄せ場・ドヤ街の代表格は、東京の山谷(さんや)、大阪のあいりん地区である。地理的条件を考えれば福島に近いのは山谷だが、暴力団系のアングラな求人を探すなら、突出した規模を持ち、まるで治外法権のスラム街ともいうべき後者の方がてっとり早い。迷わず大阪に向かった。放射能パニックの東京都とはうってかわって、大阪の街は普段通りの賑わいだった。
4月20日までの1週間は、大阪の西成(にしなり)区のあいりん地区に出向いて原発作業員の募集を探していた。共同通信がスクープしたネタはすでにこの時からあった。
「東日本大震災後、宮城県で運転手として働く条件の求人に応募した男性労働者から『福島第1原発で働かされた。話が違う』と財団法人『西成労働福祉センター』に相談が寄せられていたことが(中略)分かった。(中略)労働者らを支援するNPO法人釜ケ崎支援機構は『初めから原発と言ったら来ないので、うそをついて連れて行ったともとられかねない。満足な保障もない労働者を使い捨てるようなまねはしないでほしい』と話した。あいりん地区は日雇い労働者が仕事を求めて集まる『寄せ場』としては国内最大とされる。同センターは大阪府が官民一体で労働者の職業の確保などを行う団体」(2011年5月8日)