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神田川が牙をむいた歴史

 その神田川のほとりに、何やら説明板が建っていたので読んでみる。

 どうやらこのあたりはかつて市街地ではなく田畑が広がる中に民家が点在しているような地だったという。ところが、戦後の急激な人口増加によって急速に市街地化が進み、それまで降った雨水を吸ってくれていた田畑はあっという間に失われてしまった。

 

 結果、雨水は一気に神田川に流れ込んで氾濫。いわゆる“都市型水害”というやつで、実際に1958年の狩野川台風では神田川が大氾濫して方南町駅付近の小学校や中学校まで水に浸かってしまった。

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 同様の被害はその後も続き、1993年8月の台風11号でも神田川が溢れて3000戸以上が浸水被害にあっている。神田川、下町らしさの感じられるのどかで小さな川という印象だが、ひとたび氾濫すれば牙をむく。そんな歴史を、方南町の町は知っているのだ。

 で、環七と神田川が交わるその場所に、氾濫から町を守るための施設がある。神田川取水施設といい、環七通りの地下に4.5kmにわたって続いている神田川・環状七号線地下調整池まで神田川の水を取り入れる施設だ。同じような施設は方南町交差点の北側を流れる善福寺川にも設けられていて、この一帯を水害から守っている。あの武蔵小杉も水に溢れた2019年の台風19号でも活躍し、浸水被害をもたらすことはなかったのである。

 

オリンピックと「方南町」

 と、なんだか自然災害と大都市がどう付き合っていくべきか、といった壮大な問題を考えさせられた方南町。言われてみれば、環七通りが整備されたのは1964年のことだ。東京オリンピックにあわせて整備された“オリンピック道路”でもあった。つまり、この環七通りの整備以降、急速に市街地として発展していったのである。それを考えると、東京区部にしては比較的新しい町といっていい。

 方南町駅が開業したのはオリンピックの少し前、1962年のことだ。方南町駅と環七通りが方南町の町の著しい成長をもたらした。ちなみにその当時、丸ノ内線の新宿~荻窪間は「荻窪線」と呼ばれており、中野坂上~方南町間は荻窪分岐線といった。丸ノ内線の支線になったのは1972年のことである。