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――さくらさんと最初にお会いになられたのはいつだったのでしょう?

山田 放送が始まって1週間後ぐらいの頃ですね。打ち入りで安い居酒屋で集まったときに、さくらさんもいらして。そのとき、さくらさんが色紙を持ってきて「『一休さん』ずっと観てました! サインください!」って言うんです(笑)。「さくらさんへ 将軍さま」って書きましたよ。

 第一印象は「あら、アニメのまる子そのまんまだ」。節目でしかお会いしませんでしたが、いつも気さくに喋ってくれました。

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 生まれたばかりの息子さんを飲み会に連れてきたこともありました。赤ちゃんだった息子さんを僕が抱っこしたんです。それからずっと会っていませんでしたが、最後の収録だった2月26日に再会しました。あのベイビーが27歳になっていて、感動しましたね。

――『ちびまる子ちゃん』は1990年1月に放送が始まって、またたく間に大ブームになりました(最高視聴率は同年10月の39.9%)。山田さんは盛り上がりをどのようにご覧になっていましたか?

山田 最初はピンと来なかったですね。でも、1年目の夏過ぎには歌も大ヒットして、世の中がすごいことになっていました。いきなり取材が増えて、「キートン山田は何者だ」みたいな記事がたくさん出た(笑)。初めてキートン山田を世の中に知ってもらった感じがしました。でも、一般の人たちの反応はなかなかわからないものです。

©深野未季/文藝春秋

 その頃、千葉の松戸に住んでいたのですが、いつも買い物する狭い商店街があって、たまたま仕事の帰りに通りかかったら、ちょうど時間が日曜の夕方6時ぐらいでした。すると、一斉に両側から「♪ピーヒャラピーヒャラ」と聞こえてきた。夏だったので、みんな2階の住居の窓を開けていたのでしょう。そんなに一度に同じ時間に同じ番組を見ていることって、なかなかありませんよ。そのときは鳥肌が立ちましたね。しばらくその場に立ったまま聞いていましたよ。

常にドラマに寄り添う存在として

――アドリブのない『ちびまる子ちゃん』ですが、山田さんの代名詞とも言えるフレーズ「後半へつづく」はアドリブだったとか?

山田 そう、始まって半年ぐらい経った後(「まるちゃん学校でお腹が痛くなる」90年6月24日)、テストで思わずボソッと言っちゃったんですよ。何も考えていませんでしたし、面白いとも思っていませんでした。もし考えていたら、言っていないと思います。そもそもアドリブ禁止ですからね。

 でも、それが仲間たちにドッと受けた。後ろでざわついているのがわかるんです。本番ではやらないでおこうと思ったら、トークバックで「それ、いただいておきます」と指示が来た。さくらさんがダメだと言ったらなくなると思っていましたが、次の回から台本に「後半へつづく」と書いてくれるようになったんです。一瞬のアドリブが有名になるんだから不思議だよね。きっと誰かが言わせてくれたんでしょう。