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2021/04/02

source : 文藝春秋 digital

genre : エンタメ, テレビ・ラジオ, 映画, 読書

「おい、坊主。打ち上げでビールぐらい飲めなきゃしょうがねえぞ」

――子役時代は三國連太郎さん以外にも、錚々たる方々と共演されたり、親交がおありだったのでしょうか?

我修院 親交はありましたよ。美空ひばりさん、石原裕次郎さんには随分と良くしてもらったし。大御所と呼ばれる方々が、しょっちゅう家に遊びに来ていました。さる昭和の大スターが我が家にいらしてたんだけど、その方が「おい、坊主。打ち上げでビールぐらい飲めなきゃしょうがねえぞ」と言って、ビールの泡だけ飲ませてくれたんですよ。ビールって普通の子どもには苦くて仕方ないらしいんだけど、僕はえらく美味しく感じちゃって「うまい!」って叫んだの。そうしたら「お前、見込みあるな」って褒められて、調子に乗ってグビグビ飲んじゃった(笑)。僕、9歳の時にはすでに現在の身長だったんです。163センチで、小学校の整列では一番後ろですよ。高校じゃ一番前になっちゃったけどね(笑)。親父の背広を着ていると老けて見えたので、誰からも子どもだとは気づかれなかった。

 

――そんな子役をやっていくことに嫌気が差してしまったそうですが。

我修院 おふくろがマネージャーをやってたんだけど、それがいけなかった。子どもというのは、親が元気なうちは親の言うことをきけない動物だと思うんです。同じことでも監督さんに言われれば「はい」って素直に聞けることが、おふくろに言われると「何を言ってんだよ」ってなっちゃう。これじゃいかんなと思ったのが9歳の時です。

 元女優だったおふくろには演技についていろいろと教えてもらったけど、それはそれでありがたく頂戴して、俺は俺で音楽の道に進もうと。それで、西郷輝彦さんの「君だけを」や瀬川瑛子さんの「命くれない」を手掛けた作曲家の北原じゅん先生のところへ弟子入りしたんです。身長は163センチあるでしょ、親父の背広を着てるでしょ。北原先生は僕が9歳の子どもだとは、ぜんぜん思っていなかったね(笑)。

――タバコはおやめになったと聞きましたが、お酒は?

我修院 両方ともやってないです。7年前に脳梗塞になって、お医者さんに「酒とタバコをやめないと死にますよ」と言われてピタッとやめました。いまは1日1万歩を歩いているし、腹筋と腕立て伏せを250回ずつやってます。脳梗塞をやった頃よりも、あらゆる数値が良くなっているし、明らかに健康になったのを感じますね。

「若人さん」と呼ばれているのに「記憶喪失さん」と聞こえるまでに

――18歳で演歌歌手の桜一平としてデビュー。若人あきらと改名してからモノマネで人気を博し、熱海で記憶喪失になり、我修院達也の名で俳優としてブレイク……と、子役時代から波乱万丈です。我修院達也に改名された時は、その字面も強烈だったので驚きました。

我修院 1991年に熱海で記憶喪失になって、たいへんな騒ぎになったんですよ。連日の報道でなんだかメンタルがやられて、「若人さん」と呼ばれているのに「記憶喪失さん」と聞こえるまでになっちゃって。いっそのこと違う生き方をしたほうがいい、名前も変えてゼロからやり直そう、若人あきらを超える存在になってやろうと思い立った。

 

 ある住職の方に相談して、「自我偈」というお経の中から文字を選んでもらい、「我修院達也」という名前をいただいて。今度はモノマネをやらず、オリジナル曲を歌う歌手、性格俳優としてやっていくぞって。で、挨拶状を書いてテレビ局やマスコミに送ったり、電話をしたわけですよ。でも「我修院です」と言っても「え、誰?」となる。しかたないから「元若人あきらです」と言うと、「あぁ、若人さんか」となって我修院という名前は出ないまま会話が進んでいっちゃう。

 そんななか、最初に僕のことを我修院さんと呼んでくれたのが石井克人監督でした。それが『鮫肌男と桃尻女』への出演オファーだったの。「子どもの頃からファンでした。テレビ見てました」「僕が監督になったら我修院さんに作品に出てもらいたいと思っていたんです」と言ってくれて、ご縁を感じて殺し屋・山田正一の役を引き受けた。

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