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芸能事務所のオーディションを受けまくった大学時代

――大学在学中は、事務所のオーディションを受ける日々だったんですか?

福田 そうですね。とりあえず芸能事務所のオーディションを受けまくってましたね。マセキさんとか、人力舎さんとか、でもどこにも受かんなかったんですよね。

益子 唯一拾ってくれたのが、前の事務所のアミー・パークだったんですよ。ただ、まぁ事務所に入ったからといって、「お笑いで売れてやるぞ!」みたいなギラギラした感じはあんまりなかったかもしれないですね。

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福田 最初も言ったように芸能事務所に入っとけば、栃木に帰ったときに「俺ら芸能人だったんだぜ」って言えるからくらいの軽い気持ちでしたね。

 

益子 俺らがコンビ結成した当時は、芸人なんてヤクザな世界でしたからね。

福田 いまは立派な大学を出ている優秀な人が多いですけどね。僕らの世代はまだ、シンナーやっている人とかいましたから。

益子 いたいた! 先輩の芸人さんが冗談で、「シンナーあるよ」っていったら、「どこどこ?」って目を血走らせている人とかいましたよ。

――まだ昭和の面影が残っている時代だったんですね。

福田 そんなスゴイ世界の中でしたから、いろんな先輩にお世話になりましたね。今でも覚えているのは、浅草キッドさんから「もっと栃木訛りを出した方がいいよ」ってアドバイスをもらったこと。その言葉があったからこそいまがあるんだなって思います。

益子 あと、東京に出てきて最初にお世話になったのは、たけし軍団のガンビーノ小林さんでしたね。小林さんは北海道出身なんですけど、俺らが栃木出身だっていうと「俺と同じ北の人間じゃねぇかよ、南に負けんなよ」って。「俺らは一応関東なんだけどな…」って思いましたけど、酒の飲み方から、何まで教わりましたね。

インパクトあるネタを続けていたら…パンチドランカーに?

――北海道も栃木も北でひとくくりですか、すごい。事務所所属になってからも、いろいろな番組のオーディションに参加する日々が続いたんでしょうか?

福田 そうですね。深夜番組のオーディションとか受けて。結構、通ってたんですよ。

益子 自分で言うのもあれですが、インパクトあるネタやってましたからね。自分で自分の顔面殴るっていう。でも、それを続けてたせいで3、4年前くらいに急に滑舌悪くなったり、目がぼんやりし始めたんすよ。

――完全にパンチドランカーの症状ですね。

益子 だからね、カミナリのたくみに何度も言っているんですよ。「今はまなぶもなんともねぇかもしれねぇけど、あとで頭が悲鳴あげっから、ちょっと弱く叩いたほうがいいぞ」って。もう十分インパクトは残したんだから。

 

福田 逆にカミナリは「益子さんが同じことをホント何回も何回も言ってくるんです。やっぱり頭ヤバイんじゃないですか?」って心配してましたけどね(笑)。

益子 ボケで言ってるわけじゃねぇかんな! カミナリが本当に心配なんですよ。

――まさに命を削るネタなんですね。カミナリの2人はU字工事さんに影響を受けたといっています。ネタも暗記しているほど見ていたらしいですね。

福田 そう言ってもらえると、2人でカラオケに集まって「あーでもない、こーでもない」とネタを作った苦労が報われますよ。