「少女がいくら元気よくても、今だとそれはダメなんです」
「(『崖の上のポニョ』以降)僕は、少女を主人公にした映画を考えていませんね」「僕は、少年を主人公にしたものしか、考えてはいけないと思っています」「少年を主人公にしなきゃダメなんです。少女がいくら元気よくて、メーヴェに乗ってもですね、今だとそれはダメなんです」(『続・風の帰る場所』より)
この発言は2010年のインタビューにおけるものだが、宮崎駿は以前から何度か「少年を主人公にした映画」の構想について言及しつつ、同時に「それは悲劇的なものになり、人に希望を与えるものにするのが難しい」と逡巡を繰り返している。
細田守が、宮崎駿の作り上げた「少女ヒロインの時代」にあえて少年を主人公にした物語を描いてきたのは、そうした問題意識を共有し、それを超えていく意志を含んでいるのかもしれない。
「何も持っていないんです。少年というのは。だから少年を主人公にしたら、映画館にお客が来ないだけじゃなくて、作りようがないんです。少年が活躍する場がないんですよ。そう思いませんか?」(同書)という宮崎駿の言葉を打ち破るように、細田守作品は『サマーウォーズ』『バケモノの子』と少年を主人公にした映画で興行的成功を打ち立ててきた。
“表現派”の細田守は、むしろ高畑勲に近い
細田守作品が興味深いのは、少年を主人公にすることだけではない。彼の映画は商業アニメーションの武器になるキャッチーな要素をあえて排して作られているのだ。キャラクターの作画は、肉感的でセクシャルな艶をあたえるハイライトとシャドウをあえて使わず、絵本のように描かれている。
冒頭に引用した是枝裕和監督の映画ゼミでも「キャラクターの演技を重視する『演技派』と全体の演出を重視する『表現派』があるとしたら自分は後者だ」と語っているが、キャラクターの魅力でひきつけてファンの二次創作を生む日本アニメのメインストリームに対して、細田守作品の中心にあるのはあくまで映画であり、ストーリーなのだ。
映像全体の色彩もそうだ。ジブリ、新海誠、庵野秀明という日本アニメで最も大きな商業的成功を収める監督たちの作品の中で、細田守作品は「映像の彩度」を明らかに抑えたトーンで作られている。ワンショットの一枚絵の鮮明さ、目を奪うような映像の美しさではなく、連続して動いていくアニメーションの絵として細田作品の絵は描かれている。それはまるで、糖度の高いフルーツの中に並んだ野菜のようだ。
その商業的成功から「ポスト宮崎駿」と騒がれる細田守作品だが、実はそうした「糖度の低さ」「映像やキャラクターの魅力で押し切るのではなく、ストーリーを語る」という構造は高畑勲作品に近い。