小学校5年生の頃になると、母は家に帰ってこなくなった。1週間ほど家を空け、ようやく戻ってくる。すると、また父と大ゲンカになって、出て行ってしまう。その繰り返しだった。
しばらくすると、両親は離婚した。近くに住む父方の親戚の家に、妹のさかえと預けられたが、そんな生活は1年も続かなかった。
「これからは俺たち3人で暮らそうか」
父からそう言われた。
親戚の家に預けられながらも、いつかまた母と一緒に暮らせるようになるだろう。父と母はきっと、仲直りをしてくれるだろう。心のどこかに、そんな淡い期待を抱いていたが、父の言葉に、もう母と暮らすことはないのだということを幼心に悟った。
愛情に飢えていた中学時代
どんなに体が大きく、生意気でも、まだ小学生だったから、母の温もりを欲していた。週末になると父の目を盗んでは、京阪電車の七条駅近くの借家に1人で住む母に会いに行った。小銭を集めて切符を買い、小さな妹の手を引いてゆく。電車に乗る前は不安だった心が、母が住む駅に着くと、すっと消えた。厳しかった母は、兄妹2人の顔を見ると、優しく微笑んでくれた。久しぶりに食べる手作りの料理の味。短い時間でも、母と会えるのは嬉しかった。
小遣いをもらい、夕暮れの道を、妹の手を引いて帰って行く。振り向くと、母は2人の姿が見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも、手を振ってくれていた。
中学になり、荒れた生活をするようになってからも、いつも、どこかで愛情に飢えていた。寂しさを紛らわすために打ち込んだのが、野球だった。巨人ファンで、王貞治がヒーローだった。一本足打法の真似をして、4番でファースト。小学校の卒業文集には「プロ野球選手になって、有名になる。国会議員にもなる」と記した。
その境遇は偶然にも、伏見工業に入学してすぐに出会った山口と重なる。幼い頃に実の母を亡くした山口もまた、母親の愛情に飢え、寂しさを紛らわすために野球に夢中になっていた。だからこそ山口は、京都一のワルと呼ばれ、まるでチンピラのように荒れた生徒を、見捨てることはできなかった。
「お前はケンカに負けるんか」
毎朝、山口は自宅まで迎えに行った。次の日も、また次の日も。山本は、学校をサボることができなくなった。
「寝ていてもいい。きちんと学校には来い」
そう山口は言い続けた。想像を絶するほど、練習はきつかった。中学の野球部では4番を任されていたとはいえ、タバコを吸い、昼夜逆転の生活を送っていた体は正直だった。ランパスをすれば、他の部員に20~30メートルも離された。練習に付いていけず、辞めようと思った。それは、一度や二度ではなかった。疲れ果てて家に帰れば、悪友が待っていた。誘惑に勝てず、再び、悪い道に逸れそうになる。すると、決まって山口は声をかけてきた。
「おい清悟、お前はケンカに負けるんか。ラグビーはルールのあるケンカやと言うたやろ。負けても、それでも、平気なんか」