虚飾なく表現できていた頃
はっぴいえんどの頃は、自分のために書けばよかったから恣意的な技巧を使わずともナチュラルに表現することができていた。解散後、1973年にプロデュースした南佳孝の『摩天楼のヒロイン』や、1975年に作った鈴木茂のアルバム、同じ年、矢沢永吉さんのソロアルバムに書いた『安物の時計』は、その延長線上で作った。
『BAND WAGON』は、茂がひとりで渡米して、茂のほかは全員が現地のミュージシャンでレコーディングしたアルバムだ。インストゥルメンタルを除いて全曲ぼくが歌詞を書いたのだが、国際電話で伝えられてくる文字数に合わせて歌詞を作り、それをまた電話で読み上げるという作り方だった。アメリカとの国際電話が3分3000円もした時代で、一曲作るのに電話代が10万円もかかった。この時のぼくのことばは、ぼくの等身大だった。それは茂の歌だったからだ。とくに『微熱少年』は、ぼくの創作のメインテーマだったから、それを表現させてくれた茂には感謝している。
遠い電車の響き 路地から路地に伝染り
目覚めれば誰もいない部屋 夜が忍び寄る
ほらね 嘘じゃないだろう
路面電車は浮かんでゆくよ 銀河へと
(『微熱少年』)
『安物の時計』は、矢沢永吉さんのソロデビューアルバム『I LOVE YOU, OK』(1975年)の一曲だ。矢沢さんからのオファーで作った。
矢沢さんはとても礼儀正しい人で、詞に関してのオーダーは何もなかった。はっぴいえんどのほうがキャロルよりもデビューは早いのだが、矢沢さんとは同い年だ。この歌は気に入ってもらえたようで、ずっとライブで歌ってくれている。
あー、やっとお前の顔も
忘れられそうなのに
あー、今も想い出させる
蜜のような時間を
チッチッ チッチッ 悲しみきざむ
チッチッ 心に
(『安物の時計』)
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