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強権企業が島を支配、日本円すら流通せず…ナゾの離島「南大東島」のディープすぎる世界

日本の離島を巡る――南大東島 #1

2021/11/13

genre : ライフ, 歴史, , 政治

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実は尖閣諸島と似た歴史

 JAや郵便局がある在所の中心部には、錆びた小さな機関車が2台展示されていた。通称「シュガートレイン」。1917年に敷設され、1983年まで現役で稼働していたサトウキビ運搬用の私設鉄道だ。付近には島についての小さな資料館(ふるさと文化センター)もある。

錆びたシュガートレイン。1983年を最後に製糖会社の都合で突如としてお役御免になったそうで、ラストラン・イベントなどもおこなわれなかったという。

 資料館で展示物を眺めていると、南大東島が実質的に100年くらいの歴史しかないことをあらためて確認できた。この島はもともと無人島。1885年にひとまず日本領とされたものの、沖縄県内の他地域とは違い、歴史上でも琉球王国の支配領域に組み込まれたことがない。

(実は琉球列島を挟んで逆側に位置する尖閣諸島と、日本領土に組み込まれた経緯がやや似ているのだが、尖閣諸島は前近代から琉球人に存在を知られていたので、歴史的には大東諸島のほうが沖縄とはいっそう縁遠い。なお、尖閣諸島の日本領有宣言は南大東領有の10年後の1895年であるいっぽう、開発の開始は南大東よりも3年早い1897年。尖閣の場合、大東諸島と違って中国・台湾と近かったことが、近年の面倒な領土問題の理由になっている)

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開拓記念碑。ちなみに左は玉置半右衛門が同じく開拓していた小笠原諸島の鳥島で火山が爆発、開拓民が全員犠牲になったことを悼む「鳥島爆発記念碑」。

 やがて1900年(明治33年)、八丈島の豪商だった玉置半右衛門が組織した八丈島民23人の開拓団が60日あまりの難航海の末に南大東島の西側海岸に上陸し、断崖をしがみついて登り島内に侵入。淡水の池を発見し、翌々年から黒砂糖の製造を開始した。

玉置半右衛門。島内の資料館「ふるさと文化センター」にて。

 島内の森が切り開かれてサトウキビ畑が作られ、もとは無人島だった南大東島は、玉置商会の所有物「社有島」になった。

学校も病院も警察も会社が握る

 南大東島の主は、半右衛門が死んだ後に業績が傾いた玉置商会が東洋精糖と合併(1916年)、さらにこちらも経営難で大日本製糖と合併(1927年)──と変遷したが、島全体が一私企業の所有物なのは変わらなかった。

 いっぽう、開拓地での一攫千金を夢見る移住者は増えていった。島内では日本円が事実上通用せず、玉置商会~大日本製糖の歴代支配者が発行した物品交換券が実質的には紙幣として流通。学校・病院・交通・通信・郵便などの事業は社営であり、さらに警察機構すらも会社からの嘱託で運営されていた。島の最高指導者は製糖工場の所長だ。

左側が玉置商会(複製)、右が東洋精糖時代に発行された事実上の島内紙幣。『カイジ』シリーズの地下帝国で流通する私的通貨ペリカを連想せざるを得ない。ふるさと文化センターにて。

 島を開拓した玉置半右衛門は、現在もなお島民からそれなりの敬意を払われている。かつて「社有島」だったころも、事業の先鞭をつけた玉置商会時代はまだ会社と島民との距離感が近かったようだ。しかし、事業者の身売りが繰り返されるにつれて、当初の経緯を知らない会社側が傲慢になっていった。