――今村さんは小学5年生の時に『真田太平記』にハマってから時代・歴史小説を読みつくして、いずれ自分も書こうと思っていたそうですね。社会人になって実家のダンススクールの先生となり教えていましたが、30歳を過ぎた頃、教え子に「翔吾君も夢を諦めたじゃん」と言われ、ダンスの先生を辞めて小説を書き始めたという。
今村 小説家にはずっとなりたかったんですよね。人生の転機って本当にいろんな角度からやってくると思うんですけど、最後の1ピースが教え子のその言葉でした。
僕がダンスを辞める時に、各教室ごとに垂れ幕を作ったりとかでいろいろやってくれたんですけど、みんな「目指せ直木賞」とか書いていたんです。それくらい直木賞って、小学生、中学生、高校生にも知られた賞なんよね。あの子らに分かりやすく僕が小説家になったと分かってもらうためには、ここを目指すしかないんやなというのは、その時から思っていました。
ダンスの先生を辞めると言った4日後ぐらいに締め切りがあったのが伊豆文学賞という地方の短篇の文学賞でした。原稿用紙100枚を4日で書けへんかったら、俺はこの先どんなところでも甘えて「仕方ない」って言い続けるんやろうな、そんな人生とは決別しやなあかんと思ったから、4日で書くと決めて書いたんです。
北方謙三に「(長篇を)1か月で書けます」
――で、書きあげたのだからすごい。
今村 で、受賞しちゃった(笑)。伊豆文学賞の締め切りの1か月後くらいに九州さが大衆文学賞という短篇の賞に送ったらそれも受賞して、選考委員の北方謙三先生が祥伝社の編集者に「こいつはたぶん書けるから、長篇1個書かせてみろ」とおっしゃったんですよね。北方作品のファンの僕は、ここは男を見せるところやと思って、「1か月で書けます」と言ったんです。実際1か月で書いたんが『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』で、その文庫書き下ろしでデビューしました。
人間って覚悟を決めたら、出会う人が変わって、縁が変わる。その縁がまた作品を強くしてくれて、強くなった作品がまた新しい縁を呼ぶ。僕は作家になってからの人生はできすぎているってよく言ってるんですけど。
――それが好評を博してシリーズ化してもまだ新人賞に応募されていて、『童の神』(応募時のタイトルは『童神』)で角川春樹小説賞を受賞、それが直木賞の候補になって注目されて。そして今回3回目の候補で受賞されたわけです。まだデビューしてから5年経っていませんよね。刊行点数も多いし、すごい勢いですね。
今村 自分でもびっくりです。