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Aは何が言いたいのか?

 調べてみると、生活保護受給者は、裁判で勝っても財産がなく差し押さえが困難であるとのこと。つまり不払いを訴訟にしても強制的に財産を徴収することは難しい。そういえばそんなことを読んだことがあるような気もする。今更だが。知ったときにはただのマメ知識程度の他人事。まさか自分が当事者になるとはまったく思っていなかった。

 それならば、示談をしたときAは釈放後で印鑑証明も取れたのだから、公正証書にすることを提案すれば良かったのだ。裁判をしなくて差し押さえだけでもできるようにしておけば、生活保護に対して実行するのは難しいとしても少しは違ったかもしれない。なにもかも、詰めが甘かった、自分。

 ところで私はAが生活保護を申請している件を前から聞いていた気がするのだが、どこで聞いたのだろう。思い出せない。もしI弁護士からだったら、彼は違約金の条項が空文になる可能性があるのを知っていたということになる。

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 それなら公正証書にする提案を再度(面談初日に一度説明されている)してくださるのが筋ってもんだろうとも思うけれど、彼はとにかく早く示談を成立させてこの案件から手を引きたかったのであるから、余計なことは蒸し返さないでおこうくらいの気持ちだったのだろうか。いや、さすがにそれはないだろう。H検事から聞いたのかもしれない。

 しかし冷静になって考えれば、ああすればよかった、こう手を打てば良かったと、様々思いつくというのに、恐怖というものは、ここまで脳機能を低下させるのかと、しみじみ思う。恐怖に追い詰められていると、正常な思考と判断はできなくなる。

 当時の私はパニックこそ起こさずに、仕事もしていたし、日常生活も送り、引越しもこなしていたけれど、判断能力は普段の半分以下だったということだ。示談の方法などを自分で調べる気力もなかった。

 I弁護士のことを信用できないと思いながら、彼に任せっきりで、なるべく事件のことを考えたくなかった。愚かであったこと、この上ない。

ストーカーとの七〇〇日戦争 (文春文庫)

内澤 旬子

文藝春秋

2022年3月8日 発売