1ページ目から読む
4/4ページ目

 そして盛岡駅から城下町の市街地に行くためには、北上川を渡らねばならぬ。その北上川に架かっている橋を、開運橋という。

 開運橋は、1890年に盛岡駅が開業したときに架けられたもので、町外れの北上川対岸に設けられた駅へのアクセスのためのものだった。当初は1回1銭の通行料が徴収されていたという。現在の橋は1953年に架けかえられたものだ。

 

 ちなみに、開運橋には“二度泣き橋”という異名があるという。なんでも、盛岡に引っ越してきた人は、「遠くに来てしまった」と泣きながら盛岡駅からの橋を渡り、離れるときには盛岡人の優しさに惚れ込んで寂しくてまた泣きながら橋を渡るから、だとか。

ADVERTISEMENT

 転勤族の間で言われるようになったのがはじまり、などというが、転勤族がいちいち赴任先で泣いていたらキリがないので、きっと盛岡の人たちの温かさを自ら誇って言い出したものなのではないか。真偽はともかく、盛岡に来た人は駅と市街地を結ぶこの開運橋を、必ず渡ることになる。いわば、盛岡の町の象徴といっていい。

新幹線がやってきてもう40年、終着駅でなくなって20年が経った

 もちろん、時代が下って市街地が拡大していくと、北上川の西側、つまり町外れだった駅周辺もいまやすっかり市街地に呑み込まれている。さらに駅の西側は国鉄の工場跡地の再開発も進み、雫石川を渡った南西側も田畑から住宅地へと姿を変えてきた。

 
 

 県都といっても人口30万人に満たない盛岡市だが、その発展は旧城下町から駅周辺に、そして駅を中心にさらに拡大していったのだろう。そうしてみると、2本の川に挟まれた盛岡駅は、江戸時代の盛岡城に次ぐ、近代以降の盛岡の“城”なのかもしれない。

 そんな盛岡に、新幹線がやってきてもう40年。新幹線が八戸に延伸して新幹線の終着駅でなくなってからも20年が経った。そうなれば、もうすっかり盛岡は新幹線のターミナルである。

 
もう一度今回の路線図。大きな川に守られた「盛岡」から少し行くと、啄木が旅立った駅「好摩」がある

 石川啄木は、1902年に中学を中退して家の最寄りの好摩駅から上京をした。いまはIGRいわて銀河鉄道とJR花輪線が分かれる小駅の好摩駅だが、啄木が旅立った駅として、駅舎の壁には盛岡駅同様に啄木の筆で「こうま」と書かれている。

 もし啄木が新幹線の時代に生まれていたら、きっと好摩駅ではなく盛岡駅までクルマでやってきて、そこから新幹線に乗っただろう。そうなると、岩手県の小さな駅が“啄木のふるさとの駅”などとされることもなかったということになる。良いか悪いかはともかく、新幹線はやはり偉大なのである。

写真=鼠入昌史

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。次のページでぜひご覧ください。