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ウクライナはドイツとロシアの歴史宣伝戦の舞台にされた

 スターリンの農業集団化と大粛清、大飢饉の後に起きたのは、1941年6月、人類史上最大の死者を出した独ソ戦の開始であり、準備万端整えていたドイツ軍はソ連軍を撃破し、ウクライナ全土を占領した。

 第二次大戦が終わる1945年まで、ウクライナは「地球上、最も危険な地域になった」(スナイダー前掲記事)。『物語ウクライナの歴史──ヨーロッパ最後の大国』(黒川祐次、中公新書)によれば、「ドイツは(中略)食糧と労働力の供給源としてウクライナを重視した。ドイツがソ連占領地から徴発した食糧の85%はウクライナからのものであった。またドイツは『オストアルバイター』(東方労働者)と称してソ連占領地域から人々をドイツに強制連行して過酷な労働を強いた。

 ドイツの警察はウクライナの市場や教会、映画館などで偶々(たまたま)そこに居合わせた若者を手当たり次第搔き集めてドイツに送った。全体で280万人といわれる旧ソ連領からのオストアルバイターのうち230万人はウクライナからの労働者であった」。

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 ナチス・ドイツはウクライナ人に対して容赦しなかったが、ユダヤ人大量殺戮も繰り広げられた。殺されたウクライナのユダヤ人は85万~90万人と推計される。

この写真はイメージです ©iStock.com

 ウクライナ危機では、ロシア指導部はこうしたドイツの歴史の負い目を徹底的に利用した。ロシア指導部は、ウクライナのEU加盟を望む親欧米派を「極右」と断じる宣伝を繰り返した。極右、ネオナチ勢力が戦闘的な反政府抗議行動を行ったのは確かだが、親欧米派に丸ごと極右というレッテルを貼り、対欧米宣伝戦を有利に導こうとした。それによってドイツの動きが鈍る効果を期待したとされる。

 ウクライナはドイツとロシアの歴史宣伝戦の舞台でもあった。

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