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「満州のお友達」を描かせる国策との共通点

 この図形的描き方にやや拘泥してみるのは、同時期、外地の新聞に円など幾何学図形を用いた「満洲のお友達易しい描き方」なる記事が散見するからである(図20)。満洲以外にもモンゴルの子供の描き方の記事を見た記憶もある。つまり「五族協和」を「お友達」を描くことで啓蒙するものだが、その手法が田河の授業を彷彿させもするのだ。

 だとすれば一体、田河が満洲で行ったコンパスや三角定規を用いた授業とはどのような意味のものだったのか。黄金分割などの講義とも考えられるが、当時「国策」で示されていた「描き方」は幾何学図形を用いた初心者向けの手法でもあるのはやはり気になる。

[図20/左]「満洲のお友達 易しい描き方」(「台南新報」1941年1月24日)
[図21/右]柳瀬正夢「貨物自動車」(「みづゑ」1925年7月号)

葛飾北斎とミッキーマウスにみる手法が背景に?

 田河水泡の「正体」が村山知義らとともに大正新興美術運動の担い手であった高見澤路直であることを知っていれば、美術雑誌の表紙にもなったその時代のアイコン的作品である柳瀬正夢「貨物自動車」(図21)を思い起こすことは可能である。

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 すなわち構成主義である。他方、田河は従兄の浮世絵画家・高見澤遠治の「製製浮世絵頒布会」の仕事を手伝うことで画業の第一歩を踏み出す。その事実を踏まえると葛飾北斎が『略画早指南』に示した「ぶんまわし」(コンパス)による円や図形の組み合わせからなる描き方が念頭にあっても不思議ではない(図22)。同書は近代に入ってから復刻され、1920年代以降のまんが入門書刊行ラッシュ以前に広く流布もしていた。

[図22/左]葛飾北斎『略画早指南』前編(1812年)
[図23/右]大藤信郎「漫画講座 第三講」(「 パテーシネ」1937年5月号)

 さらには(図23)のようなミッキーの描き方がちらりと田河の脳裏にあったかもしれない。

 ディズニーの中にキャラクターを「円」で捉える思考があり、それを大藤信郎(編集部注:千代紙を用いた独自の切り紙アニメーションで人気を博したアニメ監督)が北斎式なのか柳瀬式なのか「円」の構成体として捉え、「のらくろ」もミッキーのいわばローカライズだからあり得ないとはいい切れない。田河が行った授業はこれらのいずれかを踏まえてのものなのか、あるいは全てか。自らを「動員」せざるを得なかった田河の心情を考えればせめてその教育法にまんが家・美術家として真摯でありたいと考えたのだと思いたいが、それを証拠立てるものはない。

 事実としてあるのは「翼賛一家」や五族の「お友達」の描き方など図形を利用した初心者向けの浮き画の「描き方」は、「素人」のまんが家の「文化工作」目的での育成と協働主義的動員と密接な関係にあったこと、まんが教育は否応なくそれ自体が「文化工作」だったことの2点である。