伯父さんも相変わらず、優しかった。団の人に見つからないようにと、末三郎はこっそりお金を茶筒の中に分けて隠していたが、ときおり使役から戻るときに玲子の好きな饅頭を買ってきてくれた。彼らを悲しませたくないと思い、玲子は何も話さなかった。
もしかしたら、ふたりとも何か知っていたかもしれない。だが、彼らとその話をしたことは一度もなかった。
「嫌だ。行きたくないよ、あんなところ」――心の中で何度そう叫んで泣いたかわからない。
だが、大人があまりいない中、母親のいない玲子には慰めてくれる者も相談相手もいなかった。黒川村やその隣村の出でもなく、団幹部とのつながりもない。そればかりか、父親と伯父はもともと、団幹部と折り合いが悪かった。
自分は犯される側なのに、団幹部の親戚は別待遇
次第に玲子は、まわりを一歩引いた目で見るようになった。「これが日本人か」とすら思った。
しかも、接待役は条件で決められたはずなのに、現実は公平ではなかった。黒川村の娘たちも「接待」に行かされていたが、団幹部の親戚らは何かとまわりにかばってもらえる……。団長である新市の次女みはるも建前上、「接待」に出されていたが、明らかにその頻度はほかの娘より少なかった。――こうした指摘は、玲子のみならず、玲子と交流のないセツ(仮名)も証言していた。
玲子にしてみれば、善子の妹の久子が「接待」に行かされないのも、納得がいかなかった。同級生の久子とは、ずっと学校で机を並べて学んだ仲だった。ところが、善子が団幹部にかけ合ったため、久子は接待役から外され、同級生だったのに自分は犯される側、久子は洗浄をする側になった。
自分は軽んじられた扱いを受けていると玲子は感じた。団幹部と父親らの仲が良かったならば、同じ黒川村ならば、こんなことはなかったんじゃないか。そう思えてならなかった。
その一方で、正直で要領の悪い玲子には、責任感のようなものもあった。どうやら、接待所にやってきたソ連兵の数に合わせて、同数の娘を“用意”しているようである。3人の娘が行かされれば、そのくらいの数のソ連兵が接待所にいたからだ。
自分が行くのを断れば誰かが代わりに行かされて、順番を狂わせてしまう。皆で決めたことなのだから、自分が呼び出されれば、従わなくてはならない……。
開拓女塾では、貞操観念や大和魂を叩きこまれた。それなのに、敗戦になるや否や、兵隊にいっている家族を守るためにと、外国人兵らに犯されるのを強いられる。
「石垣がガタガタガタッて、崩れる感じがした。ああ、女ってこんなにあわれなもんだ、こんなことさせられる。あー、大和撫子として育てられたのに。恥ずかしい、恥ずかしい」
玲子は混乱した胸の内をこう言い表した。彼女が60代になってから書いた句にも次のようなものがある。
乙女ささげて
数百の命守る
女塾で学んだ大和魂
音をたててくずれ落る