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『仮面舞踏会』は、何回録り直しても、ジャニーさんが首を縦に振らなかった

錦織 全然違ったね。アイドルの女の子たちが「お食事行って来てもいいですか?」って聞くと、ADが「ゆっくり行って来てくださいね」とか言うけど、俺たちが「あ、僕たちも飯食いに行って来ていいですか?」って聞くと「お前ら早く帰って来いよ!」って。この違い、わかります(笑)?

――そうした経験を経て、85年『仮面舞踏会』でデビューされました。錦織さんを取り巻く環境は変わりましたか?

錦織 僕らがというか、周りの反応が急激に変わったよね。実際僕らも忙しくなったし。曲も、亡くなった作詞家のちあき哲也さんや、作曲家の筒美京平さん、編曲の船山(基紀)さんが精力を傾けて作ってくださって。

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――今でも、イントロを聞けばパッと思い出すほどインパクトが強いです。

錦織 もう、そこにいきつくまでが大変だったんですよ……! 何回録り直しても、ジャニーさんがなかなか首を縦に振らなかったよね。「もう少しここの流れを」「これじゃ足りない」、さらに「100万枚売るんだ!」って。僕らにはもちろん、すべてのスタッフに妥協がなかったからみんな困ってましたよ。

 レコード会社の人間も毎晩遅くにやってきては、「ジャニーさん、今日のやつ」ってデモテープを渡すの。当時はカセットテープね。それを聴いて「ダメだね。全然ダメ」ってまたやり直し。毎日夜中までそんなやりとりが続くし、僕もテープを聴きながらついウトウトしちゃった日もあったけど(笑)。

『仮面舞踏会』は、何回録り直しても、ジャニーさんがなかなか首を縦に振らなかったという 撮影:佐藤亘/文藝春秋

 まぁ、今はそこまでしないかもしれないけど、昔はレコーディングっていうとちょっと大騒ぎだったかな。

――みなさんの尽力によって完成されて。少年隊は、海外からも歌の中継があったとか。

錦織 もうこれね、時効だと思って聞いてくださいよ。当時、『夜のヒットスタジオ』とか『ザ・ベストテン』(TBS)ってたくさん歌番組がありました。でも、ジャニーさんがテレビ局のセットが嫌いだったんですよ。歌番組って、たとえば『ザ・ベストテン』では、番組と組んでいるバンドの人達が演奏してくれるんだけど、そのバンドの前で歌うことを、ジャニーさんが一番嫌がったの。だから僕らの後ろじゃなくて、僕らの対面に特別にセットを組んでもらったりしてね。

 だけど、毎週そんなセットを作るわけにはいかない。そうするとジャニーさんは思いつくんだよ。新曲出るたびに「海外行こう!」って。だからラスベガスに行って、現地のメインストリートから中継で歌ったり。2曲目の『デカメロン伝説』だって、わざと海外に行くんだから! アメリカの中古車屋さんとか、アメ車がいっぱい並んでいると画になるからって。中継大好きだったのよ。

「ジャニーさんがテレビ局のセットが嫌いだったんですよ」 (撮影:佐藤亘/文藝春秋)

――映画や写真集の撮影がメインで行ったわけではなく。

錦織 雑誌社の取材が僕ら多かったじゃないですか。彼らが便乗してついてきてくれて。なぜ、そんなことができたか。僕ら85年デビューで、バブルなんです。一番僕らがお金も遣ってもらえた時期。だから振り付けも色々な先生に習ったし。海外も、当時、ニューヨークにいたマイケル・ピータース……、マイケル・ジャクソンの『スリラー』とか『今夜はビート・イット』の振り付けをした人だね。彼の稽古場に行ってダンスレッスンを受けたり、1日8時間とか練習した日もあったよ。