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 いくらいい仕事をしても、結果に雑臭が残っていたら台無しです。生徒が片付けて若い助手が掃除をするものの、私には気になることだらけでした。デパ地下やスーパーを歩いていても、すえた臭いがあるとアブラムシが湧いているとわかります。醤油瓶をちょっと見ても、色艶から醤油の劣化が見えるのです。神経過敏になっていたと思います。

 そうした細やかな感受性を身につけることが修業であったのかもしれません。一方で感じすぎるのが辛くて、戻った当時は掃除ばかりしていました。

 家族から呼び戻される形で味吉兆から父の料理学校に戻ったのですが、今思えば、修業時代というのは、自分のことだけを考えていられる稀有な期間だったと思います。厳しいことはあったけど、後になれば楽しかった記憶しか覚えていません。とにかく、もう自分のことだけ考えていればよいという日々はこれで終わりになりました。

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料理学校に戻ったころ

 1988年、父のテレビの料理番組や料理雑誌などの手伝いをするうちに、私個人にも仕事の依頼が入り始めます。婦人雑誌の仕事やテレビの出演などメディアの仕事です。

 自分の仕事、自分の料理ということになると、こうありたいと思う気持ちが強くなるもの。材料を切る下ごしらえなら丁寧に材料を切り出して正確に下茹ですることまで、なにもかも、自分自身の手で完璧にやらないと気がすみません。

 自分の周りにご主人も先輩もいなくなって、一人になっても高みを目指そうとするあまり、不安にかられて確認を繰り返し、自分さえ信用できません。

土井善晴さんは、料理研究家の両親の家に生まれて、物心つく以前から、料理を心においていたという。 ©文藝春秋

 包丁使いでは相変わらず宮大工のように0・1ミリに拘って切り揃える。これを家のおかずでやるのですから、奇妙なものになる。料理人のプライドを家庭料理の仕事にぶつけていたのです。かつての先輩たちや料理人の誰に見られても恥ずかしくないようにとばかり意識し、自我を守るためにとにかく一生懸命でした。

 料理学校の若い先生や助手にもプロの料理人に対するように相当厳しく当たったと思います。助手さんたちの素材の管理、道具の管理、素材への触れ方、置き方、冷蔵庫じまい、冷蔵庫の開け閉め、右にあるものを左に移す動作さえ、気になりました。私の周りにいた人は大変だったと思います。