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「おいしそうに見えない」と言われて

 1年ほど経った頃でしょうか、私の料理に対して、簡単なものでも「難しそう」とか「おいしそうに見えない」とかいう周囲からの声が私の耳にまで聞こえてきました。一方、父、土井勝の料理は「おいしそう、作りやすそう」と親しまれているのです。

 父は、料理撮影の場合も若い助手さんに切りものを任せて、仕上げもほとんど直属のスタッフにさせており、自分では器を選び、料理を盛るだけという具合でした。納得のいかない切り出し(包丁の仕事)でも、許容して「よし」としていたと思います。

 例えば切り身の焼き魚でも、約束事にこだわらずきれいな方を上にすればよしとして盛ることもありました。煮物や和え物を盛り付け、真ん中に天盛り(酢の物や和え物、煮物などを盛り付け、彩りを考えて季節の香りをとめること)の針生姜や木の芽(山椒の葉など)を用意しても、「ない良さがある」と無造作にそのままにすることもある。それでも色絵の鉢に父が盛り付けた家庭のおかずは不思議と力強く、見事なもんでした。

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 料理屋でやってきた完璧な仕事を最上級と信じこみ、そうしなければ恥だとさえ思っていたのは、場違いな思い込みだったと思います。きれいに切り揃えるものだけがいい仕事ではなかった。きれいに切り揃えるということだけが、よいのではない、そしてそれは、おいしさにつながることでもない。

 切り揃えられていないものが美しく見えたり、煮崩れた芋の方が事実おいしいこともあることが、だんだんわかってくるのです。それからというものは、わざと太さや大きさを揃えない、盛りつける前に芋は軽く潰すといったことを、あえてやるようになりました。均一ではない、ムラをつくる方がおいしい、そしてそれは、家庭料理の特権と考え始めます。

 皮ごと柔らかく湯がいた里芋を、つるりと皮をむいて、晒し布巾でぎゅっと握って味噌汁に入れる「ひねり小芋の味噌汁」は汁とよく馴染んでおいしいのです。後年話題になった、形を意識することなく軽くむすんだ不揃いのおむすびも、そうしたところから生まれました。

一汁一菜でよいと至るまで (新潮新書)

土井 善晴

新潮社

2022年5月18日 発売