NHK連続テレビ小説『わろてんか』のヒロインは、お笑い王国「吉本興業」の祖がモデル。そんな「よしもと」のドラマでは描かれない歴史とは? 昨秋刊行された、800ページにも及ぶ『吉本興業百五年史』を読破した芸能史研究者・笹山敬輔さんが、知られざる吉本王朝の姿を読み解きます。
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『百五年史』は、吉本共和国による初めての「正史」である
歴史は勝者によって書かれる――中国では、新しい王朝が成立するたびに、前王朝の「正史」が編纂されてきた。それは、正確な歴史叙述をするというよりも、現王朝の正統性をアピールするために書かれるのが常である。国家の歴史ほど大きな話ではないが、会社が自らの歴史を編纂する「社史」もまた、そのミニチュア版と言えるだろう。
2017年、吉本興業は、創業者をモデルにしたNHK連続テレビ小説『わろてんか』の放送開始に合わせるかのように、『吉本興業百五年史』を出版した。1冊10500円。「社史」を一般販売するのは珍しいが、少しでも売って儲けたいというところだろうか。吉本は、創業80年を迎えたときも、『吉本八十年の歩み』を1冊20000円で販売している。商魂たくましい吉本らしさは、いつの時代も変わらない。
だが、2冊を比較してみると、この25年の間に吉本は大きな変化を遂げたことが分かる。その変化とは、例えるなら、専制王朝が民主化して共和国になったことだ。『百五年史』は、吉本共和国による初めての「正史」なのである。
創業家当主の死 『八十年史』が編まれた理由
1991年4月24日、吉本興業会長の林正之助が92歳で死んだ。翌月に行われた社葬は、なんばグランド花月を会場にし、献花の列には政財界の大物、タレントから一般の参列者まで、約2000人が並んだ。興行界のドンであり、吉本の絶大なるカリスマは、栄華に包まれて生涯を閉じた。
吉本興業は、吉本泰三と妻せいが創業し、大阪の寄席をチェーン化して大きくなった会社である。その吉本を正之助が手伝うようになったのは、大正6年、18歳のときだ。まもなく泰三が早逝したため、早くから正之助が実質的な経営を担うようになる。戦後になると、せいの息子や、ともに経営を担った弟の林弘高が次々と世を去るなかで、一人正之助のみが長命を保った。自らの地位を脅かす存在のいない中で、彼は「創業家当主」として君臨し続けたのだ。
正之助の死の翌年、まだ威光が残る中で編纂された『八十年の歩み』は、彼を顕彰するという側面が大きい。そのため、吉本にとって重要な出来事の多くが、正之助の功績に結び付けられている。例えば、『八十年の歩み』では、吉本が寄席「蓬莱館」を買収して「花月」の名を初めて使用したのを大正7年としている。しかし、実際は大正4年のことだ。両方の社史の執筆者でもある竹本浩三は、正之助が自らの入社後の出来事にするために、大正7年説を語るようになったのではないかと書く(『笑売人・林正之助伝』)。『八十年の歩み』は、「林正之助史観」に基づいた「正史」だった。