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 特徴的な屋根の赤色は、所々被覆材が剥がれて色褪せ、湿気の多さを反映してか、一部は苔が覆っており、庇の下のベランダには、雑草だけでなく、松と思われる樹木が根を張っている個所もある。

ドローンで近づくと荒廃ぶりがよくわかる
心霊スポットと呼ばれることも納得の外観

 薄暗い霧の中に佇む阿蘇観光ホテルは、心霊スポットと呼ばれるのも無理からぬ印象があり、かつて名門ホテルであった時代を想像するのは難しい。

柱や庇には葉が生い茂っている

 果たして、阿蘇観光ホテルとは、いかなる経緯で当地に建設され、どのように特別なホテルであったのか。

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阿蘇観光ホテルの「本当の姿」

 改めてその沿革を辿り、心霊スポットとなる以前の阿蘇観光ホテルの「本当の姿」を、今一度確かめていきたい。

 阿蘇観光ホテル建設計画の始まりは、大正から昭和初期に遡る。

 第一次世界大戦(1914~1918年)で戦地となった欧州各国では、戦後、破壊された生産設備やインフラに頼らず外貨を獲得できる産業として、国際観光、今でいうインバウンド事業が流行していた。

 当時、第一次世界大戦の戦後不況、そして関東大震災後の復興事業に伴う輸入超過に喘いでいた日本政府もまた、欧州各国の事例に倣い、国策としてインバウンド事業に取り組む方針を打ち出した。

 1930年には鉄道省外局に国際観光局が設置され、同局の斡旋と大蔵省の融資のもと、全国に14の「国際観光ホテル」が計画される。

 これらのホテルは、当時米国を中心にブームとなっていた世界一周旅行の航路に組み入れる形で、その大半がそれぞれ米国とアジアへの玄関口であった横浜港と長崎港を結ぶ日本横断ルートに沿って配置された。