プロパガンダとしての国際観光政策
ところで1930年代といえば、1931年の満州事変、そして1933年の国際連盟脱退と、政治的には日本が国際的孤立の道を歩んだ時代でもある。そのような時勢にあって、なぜインバウンド事業が国策として推進され、しかも成功したのか。
背景の一つとしては、当時の国際観光政策には、外貨獲得だけでなく、日本の対外イメージ向上のプロパガンダという裏の役割もあったことが挙げられる。国際的な対日感情が悪化しつつあった時代だからこそ、政府は益々、国際観光政策に注力したのである。
また、国際連盟脱退に伴って生じた円安が、訪日外国人の誘致にとってはプラスに働いたという皮肉な事情もあった。
だが、1937年の日中全面戦争開戦を契機に、いよいよもって対日世論は本格的に悪化する。訪日観光客数は落ち込み、1938年には東京オリンピックの返上が閣議決定された。その後、日本が太平洋戦争に突入すると、国際観光政策は継続困難となり、1942年には国際観光局も廃止される。
1939年竣工の阿蘇観光ホテルは、実際には、戦前にその役目を果たすことはほとんどなかったのである。
戦後の隆盛、そして衰退
第二次世界大戦後、阿蘇観光ホテルは一時的に米進駐軍に保養所として接収されたが、後に民間企業である九州産業交通に払い下げられた。
戦後も阿蘇観光ホテルはかつての国策ホテルとして相応の格式を保ち、1957年には昭和天皇が宿泊され、大変気に入られたとの記録がある。その後も陛下は阿蘇を訪れた際に2回も同ホテルに宿泊されている。
残念ながら、1964年には開業当時の建物が火災により焼失したものの、後に赤い切妻屋根の意匠を受け継いだ新棟が再建され、営業は続いた。現存する阿蘇観光ホテルの特徴的なデザインは、初代の建築をオマージュしたものなのである。
ところが1990年代になると、不況のため親会社の経営が悪化し、阿蘇観光ホテルは設備が古く宿泊客が減っていたこともあって、1999年12月16日に惜しまれながらも閉館が決定した。3棟の建物のうち別館2棟は解体されたものの、本館の建物はそのまま残された。
後日、筆者が晴天の日に同地を再訪した際には、山肌を覆う木々の緑の中に、屋根の赤色が鮮やかに浮かび上がって見えており、心霊スポット然とした佇まいとは全く異なる印象を受けた。
その姿は、かつて国家財政の柱となるべく建設され、戦後は昭和天皇を始め多くの人々に愛された名門としての矜持を、人知れず示しているかのようであった。
写真=Drone Japan
※空中撮影は各種法律を遵守して実施しています
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。次のページでぜひご覧ください。