特攻隊産みの親の大西瀧治郎海軍中将(軍令部次長)は次のような遺書を残して自決した(原文。句読点は適宜補った)。
特攻隊の英霊に申す。善く戦いたり。深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散花せり。然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。
次に一般青壮年に告ぐ。我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり。隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ。
諸士は国の宝なり。平時に処し猶お克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を尽せよ。
大西の自決は腹を十文字に切ったあと、延命措置や介錯を拒否したもので、十数時間後に死去した。
その遺書を見てもわかるように、大西は明らかに天皇ではなく特攻隊とその遺族に謝すために過酷な自決方法を選んだのである。大西が特攻隊について非常に重い責任感を背負っていたことがわかる。
「特攻」と「コンコルドの誤謬」
大西はなぜあのような無謀な特攻を行わせたのだろうか。大西は特攻が「統率の外道」であることをしっかりと認識していた。今日、特攻の戦果や効果をうんぬんする無責任な言説がまかり通っているが、大西の言う通り特攻は「統率の外道」なのであり、このような「統率の外道」の作戦で有為な若者を多く死なせたことは今考えても無茶苦茶だが、大西自身も無茶苦茶だと考えていたのである。
そのような「統率の外道」をなぜ実行したか、ということについて大西の参謀長を務めていた小田原俊彦海軍大佐(戦死後一階級特進)が、教え子であった角田和男海軍少尉に特攻の趣意、大西中将の真意なるものを語っている。
一日も早く講和を結ばなければならぬ。(中略)動ける今のうちに講和しなければ大変なことになる。しかし、ガダルカナル以来、押され通しで、まだ一度も敵の反攻を食い止めたことがない。このまま講和したのでは、いかにも情けない。一度でよいから敵をこのレイテから追い落とし、それを機会に講和に入りたい。敵を追い落とせば、七分三分の講和ができるだろう。七、三とは敵に七分、味方に三分である。勝ってこの条件なのだ。残念ながら日本は、ここまで追い詰められているのだ。
(中略)特攻を行なってでもフィリピンを最後の戦場にしなければならない。このことは大西一人の判断で考え出したことではない。東京を出発するに際し、海軍大臣(秦野注・米内光政)と高松宮様(同・昭和天皇の弟宮)に状況を説明し、私の真意について内諾を得たものと考えている。
(中略)今、東京で講和のことなど口に出そうものなら、たちまち憲兵に捕まり、あるいは国賊として暗殺されてしまうだろう。死ぬことは恐れぬが、戦争の後始末は早くつけなければならぬ。
(中略)これは、九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。ではなぜ見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。一つは、万世一系仁慈を以って国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば必ず戦争をやめろ、と仰せられるであろうこと、もう一つは、その結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに亡びんとする時に、身をもってこれを防いだ若者たちがいたという事実と、これをお聞きになって陛下自らの御心で戦を止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するだろう、ということである。(神立尚紀『戦士の肖像』)
ここで重要なのは大西自身が早期講和論者であったこと、ただ即時講和論ではなく一撃講和論であったこと、天皇が特攻という無茶苦茶な作戦が行われていることを知れば戦争をやめろと言うことに期待していたこと、であろう。