周知のごとく、大西の考えた通りにはまったくいかなかった。一撃講和の可能性を目指した捷一号作戦は大失敗に終わり、日本は早期講和のタイミングを逸した。
「必ず戦争をやめろ」と言うだろうと期待した天皇は特攻ではやめようとは思わず、ドイツ降伏と沖縄陥落でようやく講和に舵を切り、原爆投下とソ連参戦という絶望的な状況に陥って初めて「戦争をやめろ」となったのである。
しかしまさに天皇が「戦争をやめろ」と決断した時、大西は講和に傾く政府に徹底抗戦派として頑強に抵抗した。なぜ大西は徹底抗戦派に「転向」したのだろうか。それとも大西の考えは実は一貫していたのだろうか。これを解く鍵の一つが「コンコルドの誤謬」である。
「コンコルドの誤謬」という言葉はかなり知られているであろう。私は特攻がここまで広がってしまったのにはこの「コンコルドの誤謬」があるのではないか、と考えている。そもそも日本が無謀なアジア・太平洋戦争に突入してしまったのも、この言葉で説明できる。
「コンコルドの誤謬」というのは、「埋没費用効果」とも呼ばれ、特に超音速旅客機のコンコルドにおける失敗例が有名になったことからこの名前がある。
コンコルドはフランスとイギリスの共同研究で開発が始まった超音速旅客機だが、開発途中で商業的に成立しないことが明らかとなった。しかし開発にかけたコストを惜しむあまりにコンコルド開発は継続され、予想通り商業的には失敗した。
このように投資し続けることで損失を出すことが明らかであるにもかかわらず、これまでかけた費用(埋没費用・サンクコスト)を惜しんで投資をやめられない状態を「コンコルドの誤謬」という。
公共事業がなかなか止まらないのもこれに起因する。「やめることは、一番簡単なこと、楽なことだ」と言う政治家が存在するが、まさにこれは「コンコルドの誤謬」に取り憑かれたがゆえの発言であり、このようなリーダーに率いられて泥沼に入り込むのは珍しいことではない。
犠牲者は常に若者だった
一撃講和はフィリピンで米軍に大打撃を与えることが前提であった。そのために特攻が行われた。今日、特攻についてはかなりの効果があったことがしきりに喧伝されている。特攻が百隻を超える艦船に損害を与え、戦場から離脱させる効果があったのは事実である。
その一方で一撃講和の望みを託したレイテ沖海戦は日本軍の完全なる敗戦に終わった。その意味では特攻隊では日本が救えないことも露呈したのである。
特攻に関する評価はなかなか難しいものがあるが、私は生出寿氏の次の評価がもっとも妥当だと考える。
特攻は最後の切り札であった。だが、「神風」と名づけた切り札の特攻によっても、戦局は好転しなかった。その結果、「特攻をやっても勝てない」という考えにゆきつき、それ以上の手もなく、ついに陸海軍も我を折り、降伏に踏み切らざるをえなくなった。(生出寿『特攻長官大西瀧治郎 負けて目ざめる道』)
大西はこのような「外道」な作戦を中央(特に天皇)が聞いたら、さすがに戦争をやめてくれるだろうと考えて特攻を計画した。しかしこの作戦の有効性に気づいた中央はこれを拡大し、なんとか一撃講和に持ち込めないか、ということを考え始めた。
特攻が意外と効果があったことが日本の判断を狂わせたのである。しかし、ここでは常に若者が犠牲となって、上の者は安全圏から命令するだけであった。