鳥肌 私は樺太で生を受け、今年で52歳になる無所属廃人ですが、こう見えても大卒です。亜細亜アフリカ語大学ドラヴィダ語学科を卒業した後、山崎製パンで朝の8時から朝の8時まで流れ作業に従事するかたわら、休憩時間にアムウェイの勧誘を欠かさず行ってきました。月に1度の休日は、創価学会員と激しく殴り合っておりました。
――そういったネタは良く存じておりますが、実際のところ、演説芸に至る経緯としては……。
鳥肌 いまから25年ほど前。西暦にして、1995年あたりでしょうか。いろいろと、もがいておりました。
1995年といえば阪神大震災に地下鉄サリン事件と、バブルも弾け、たしかに暗雲が立ち籠めていました。
ふと気づけば街宣車の上で演説し、はたと気づけば…
――1995年というのは、世相的にもカオスではありましたね。“もがき”の背景には、そうした世相も影響していた?
鳥肌 いや、特に関係ありません。たまたま、そういった1995年に上京し、それから1999年、日比谷野外音楽堂のステージに立つまでの5年間というのは、公私ともに悶々としておりました。
芸人として、数々のお笑いライブに出演はしておりましたが、どうもしっくりこないというか、ジャンル的に、ちょっとこれは違うんじゃないかという、悶々とした思いと、製パン工場、アムウェイ、創価学会員。勤労、勧誘、お題目が、頭のなかでグルグルグルグルグルグルグルグルと5年間。
――ふと気づけば街宣車の上で演説し、はたと気づけば日比谷野外音楽堂に立って演説していたんですね。
鳥肌 古い話で、当時の自分が何を考えて行動していたのかは思い出せませんが、とにかくメディアの力を使わずに、どうすれば一番目立てるか、集客出来るか、当時は自己顕示欲の塊ですから、そんな事ばかり考えていました。
こりゃ、普通にお笑いライブに出ていてもダメだなと、ネタの内容も制限されるし、まず、お笑いのお客さんだけをターゲットにしていても埒が明かない、もっと不特定多数に向けて発信していかないと、始まらないと。
3000人が集結した日比谷野音
――そこで、政治家の選挙活動、街頭演説の手法を真似てやるのが手っ取り早い、と。
鳥肌 当時は、警察もそんなうるさくなかったですから。軽の街宣車(ミラ・ウォークスルーバン)で原宿周辺をねちっこく回り、朧(おぼろ)げな演説の合間に、マイケル・ジャクソンの曲で奇妙なダンスを踊る、その繰り返しで、ひたすらチラシを配りました。玉砕スーツを考案し、着装しだしたのもこの頃です。街宣パフォーマンスをやり続けて、演説スタイルは自然と確立していきました。
――結果、日比谷野音は大盛況となった。
鳥肌 最初の野音は恐ろしくスベリましたが、得体の知れない手応え、満足感は確かに有りました。
夏の野音単独ライブは5年連続やりまして、初回動員は約2000人。2回目以降はほぼ満席。すべて3000人越えの動員でした。
それまでの単独ライブの集客が、せいぜい200~300でしたから、爆発的な増え方でした。