しかし平安時代のものは見つからない。いったいナゼ…?
だが、平安時代になると、見つかる物がなくなる。「温暖化で海が近くなり、砂の移動が激しくなったせいだと思います。今と近い状態なのですが、当時は植林の技術がなかったので、集落を捨てて逃げたのかもしれません」。
江戸時代になると寒冷化が進み、人が活動できる時代になった。寛永通宝が埋もれた理由だろう。
昨年末には観光客が江戸初期まで使われた元豊通宝を見つけた。
「時代は不明ながらも備前焼、青い釉薬で模様が描かれた唐津焼のかけらも出てきます。割れたからというので、集落の外れに埋めたのかもしれません」
石川さんが就職する前だが、人骨が4体見つかったこともあった。
「大事件かもしれないと、警察に通報し、検視が行われたそうです。結果として事件性はなく、江戸時代末期から明治初期にかけて流行り病で死んだ人がいて、集落から少し離れた砂丘に埋葬したのではなかろうかという結論になりました。遺体はきれいに並べられていました」
遺体だけでなく数多くの銃弾まで
石川さんがガイド中、火縄銃の弾を見つけた小学生もいた。
「江戸時代に猟で使われたのでしょうか。錆びた鉄の固まりみたいになっていて、よく見つけたなと思います」
砲弾のかけらも出てくる。
「鳥取砂丘には鳥取藩の砲台場がありました。その名残は1934(昭和9)年の写真でも確認できます。しかし、温暖化で砂の移動が激しくなったせいか、今ではすっかり削られてなくなってしまいました。残っているのは近くにあった松だけです」
銃弾は数多く出てくる。明治末期から昭和初期にかけて陸軍歩兵第40連隊が砂丘を演習場にしていたからだ。
「三十年式歩兵銃、三八式歩兵銃、機関銃、将校が撃った拳銃の弾が出てきます。中に鉛が入っているので、戦後に銃弾を拾って買い取ってもらい、小遣い稼ぎをした子供もいました」
戦後に埋もれた物で、人々の関心を引いているのは空き缶や空き瓶だ。
2021年2月、石川さんは拾ったファンタ缶について情報を得ようとビジターセンターのSNSで発信した。すると数多くの反応があり、発売していた会社が「これは1968~1974年に発売されたファンタグレープ…! なかなかお目にかかれない、とても貴重なものです!」と返事をくれた。
「フタは開けやすいようアルミ製ですが、ボディーはスチール製。見つかった時は新品みたいな感じでした。空気に触れているうちに劣化が進んでしまったのですけれど」
これは空き缶に限ったことではない。銅銭で鋳造が始まった寛永通宝は鉄でも鋳造された。この鉄銭が砂丘上で見つかると、拾った時点からどんどん錆びて劣化する。「完全に鉄くずになってしまいそうになり、密封して保存した物もあります」。
現代に姿を現した途端に劣化してしまうなど、玉手箱を開けた浦島太郎のような話だ。