そうした資金はありはしたものの、「全線再開」までどうやって食いつなぐかは大きな問題だった。
地震が起きた2016年度の収入は前年度の13%の約1460万円に落ちた。
それでも13%あったのは、部分運行を再開した高森-中松間で観光客が乗ってくれたからだ。10分強の乗車区間だが、列車は阿蘇山を眺めて走る。一部ではあったが、「絶景」が楽しめた。
不通区間の再開に立ちはだかったふたつの問題
一方、被災後は通学・通勤の利用がほぼゼロになった。地元の足としては不通区間の中松-立野間(10.6km)こそ重要だった。立野駅でJR豊肥本線に乗り換えられなければ、熊本市内などの高校に通えない。拠点病院のある立野へもアクセスできない。
このため、熊本市内の高校へ通う子の中には、親に片道1時間ほどかけて列車が運行するJR駅などへ送り迎えしてもらう生徒が増えた。部活動の時間がなくなり、辞めざるを得なかった子もいた。地震が起きてから進学した生徒の中には進路を変更した子もいたという。運休は南郷谷の子供達の運命を大きく変えた。
不通区間の再開には、二つの問題が立ちはだかっていた。
一つは財源である。第一白川橋梁は架け替えなければならなかった。断層があると見られるエリアでは犀角山トンネルが山ごと50cmほど動き、山を削って切り通しにする必要があった。他にも多くの被災箇所があり、復旧工事には70億円近く必要になると見込まれた。
爪に火を灯すようにして営業してきた南阿蘇鉄道に、そのようなカネはなかった。
被災後、16人いた社員を半分に減らしたが、それでも赤字が膨らんで転換交付金などの基金が底を突いた。では、沿線の2町村に工費を負担できるかというと、人口規模が小さくて財政が厳しい。
そこで熊本県知事や高森町長が中心になって政府に要望を繰り返し、「特定大規模災害等鉄道施設災害復旧事業」に採択された。経営基盤の弱い鉄道事業者が大規模災害に遭った場合、線路などの鉄道施設を沿線自治体などに譲渡する「上下分離方式」に移行するのを条件に、国と地元自治体が復旧費用を半分ずつ負担する仕組みだ。これだと第三セクターの負担はゼロで済む。県や町村が負担する分も、その95%に地方交付税が措置されるので、実質的な地元負担は2.5%になる。
この財政フレームが適用されたことで、再建に光が見え始めた。
「念願」だったJR豊肥本線への乗り入れが可能に
もう一つの問題は、難工事となった第一白川橋梁の架け替えだった。施設の維持管理程度しかしてこなかった南阿蘇鉄道の手に余る事業で、橋梁建設の専門知識を持つ社員もいなかった。しかも、現場は外輪山の切れ目の急峻な地形で、強風が吹くこともある。