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 中川さんは熊本市の自宅にいた。「ドカンと背中が突き上げられたような感じでした」。自宅は半壊。避難のために家を出て、車の中で待機した。テレビをつけると、驚くような情報が流れていた。南阿蘇村の阿蘇大橋が落ちたというのだ。「毎日通勤で渡っていたのに……」。

 阿蘇大橋は立野駅から2kmほど離れた峡谷に架かる国道橋だった。橋長205.96m、谷底からの高さは76m。これが一瞬のうちに落ちたのである。車で通行中だった大学生も亡くなった。地震の衝撃に加え、外輪山からの大規模崩落に襲われたのが落橋の原因と見られている。この崩落では国道57号線やJR豊肥本線も呑み込まれた。

新阿蘇大橋。阿蘇大橋が落ちたため、新たに架けられた

点検の結果、第一白川橋梁の損傷が激しいことが判明

 南阿蘇鉄道の沿線で特に被害が酷かったのは南阿蘇村だ。全壊の戸数が699棟。1階部分がぺちゃんこに潰れた建物もかなりあった。多くの箇所で土石流や大規模崩落が発生し、これに埋もれた家もあった。

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 熊本地震全体の死者は55人だが、そのうち16人が南阿蘇村だった。当時、村内に阿蘇キャンパスがあった東海大学の学生も含まれている。

 発災当初、南阿蘇鉄道が走る南郷谷へのアクセスは困難を極めた。阿蘇の玄関口になっている立野地区が被災したからである。中川さんは熊本市に住んでいた社員と一緒に山道を迂回して向かった。本社や車両基地のある高森駅に到着したのは、もう午後の陽が傾こうかという頃だった。

 高森駅からだと、まずは田園の中を通る部分が多いので、そこまで大きな被害はなかった。だが、立野駅に近づくほど無残になった。斜面が崩れてレールを押し流したような場所もあった。トンネルに入ると内壁に多くの亀裂や崩落跡があった。「余震がかなりあったので、早歩きで通過しました」と中川さんは語る。

JR豊肥本線の立野駅

 点検はこの日だけでは終わらなかった。翌日に掛けて回ると、阿蘇大橋の近くにある第一白川橋梁の損傷が激しいと分かった。落橋こそしていなかったものの、とても列車が通れる状態ではなかった。

「もう、どうしたらいいか分かりませんでした。復旧可能なのか……。社員は誰も口には出しませんでしたが、不安でいっぱいでした」と中川さんは振り返る。

「地方の鉄道はどれだけ地元が必要と考えているかがポイント」

 ただ、考えている暇などないほど忙しかった。被害が比較的少なかった高森駅側だけ部分復旧させると決まり、沿線で唯一の行き違い施設がある中松駅までの7.1km区間を運行再開する作業に忙殺されたのだ。全線の半分にも満たず、どこにもつながらない区間を往復するだけだったが、被災から3カ月半後に走らせることはできた。