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限られた人しか立ち入れない“城の守りの山”がなぜ遊園地に?

 ここで、ベニーランド開園よりさらに100年ほど歴史をさかのぼってみよう。ベニーランドや動物園のある八木山一帯は仙台城(青葉城)の裏山として、藩士しか立ち入ることのできない“城の守りの山”だったという。

 

 それが明治に入ると、生活に困った藩士のために仙台藩が彼らに山を払い下げ。ただ、藩士たちの共有財産とされたおかげで所有権を巡っていさかいが起きてしまい、裁判にまで発展している。ここで白馬の騎士として登場したのが、四代目八木久兵衛さん。仙台を代表する実業家であった。

「四代目八木久兵衛が、大正時代の末ごろに訴訟ごとまとめて引き受けて山を買い取りました。それを五代目八木久兵衛が引き継いで、市民が楽しめる場所として整備していったんです。当時は結核が流行っていて、空気のいい療養地としてこの山を考えていたんじゃないでしょうか」(八木園長)

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 ちなみに、八木久兵衛さんが買い取るまではこの山は越路山と呼ばれていたが、八木久兵衛が整備したことで八木山と呼ばれるようになったという。いまでは一帯が八木山本町や八木山東など、“八木山”を冠した町名が与えられている。

「最初に山を整備したときにも、小さな遊園地のようなものがあったようです。ただ、いまのベニーランドのように本格的なものではなくて、むしろ公園や野球場がメイン。野球場はいまの動物園のアフリカ園あたりにあって、東洋一と言われるほどの規模でした」(八木園長)

 この野球場では、歴史に残る名勝負も繰り広げられている。1934年、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらを擁するメジャーリーグ選抜と沢村栄治らの全日本が戦った伝説の日米野球だ。八木山球場で行われた第4戦、ベーブ・ルースは2本のホームランを放った。八木山動物公園内には、ホームランボールが落下した付近にルースの像が建っている。

あまりにも豪快すぎる八木さんの大英断

 そして八木久兵衛さんがスゴいのは、山を買って野球場を作ったことだけではない。なんと、整備が終わるとその敷地をまるごと仙台市に無償で譲渡したのだ。

 山の購入はもちろん、野球場やそれに向かう道路の整備にも私財を投じ、そうしてできあがったものをタダで市に寄付……。社会貢献事業ということになるのだが、昔のオカネモチ、その規模もあまりにも豪快である。このときに寄付した土地が、いまでは八木山動物公園になっている。

「戦後の復興が進むと、まずは昭和30年代くらいから一部の宅地化がはじまったんです。そのあと、1965年に動物園が移転してきて、それから遅れること3年、1968年にベニーランドが開園しました。動物園ができたときにはこのベニーランド、駐車場だったんですよ」(八木園長)

 ベニーランドは東北地方でははじめてとなる総合遊園地だった。いまでもベニーランドほどの規模を持つ遊園地は、山形のリナワールドがあるくらいだ。開園当時は14ほどのアトラクション。55年の間に敷地を広げ、アトラクションを増やしていまに続いている。開園時からのアトラクションは残っていないが、件のテーマソングとベニーマークは55年前とまったく変わっていない。そして……。