老いてただ過ぎゆく人生に希望はないのか?
この映画があらわにするのは、老いること、時を経ることの、残酷なまでの現実だ。
時が流れ、人はさまざまなものを失う。大切な人たちとか、恋愛や仕事に打ち込む、満ち足りた日々とか。
この映画はそうしたものを失い、老境を生きる主人公たちに対し、安易な救いの手を差しのべない。
ミゲルは追想の果てに、かつての恋人ロラと再会する。フリオを含む三角関係にあったふたりは、それぞれのたどって来た、悲喜こもごもの人生について語り合う。
若いころに願ったのは、本当の自分の居場所を持つことだったと話すミゲル。しかしそんな場所は見つからなかったとロラは応じる。「あなたは?」「私もだ」
こんなふうにすべてを置き去りにして、ただ過ぎゆく人生に、もはや希望などないのか?
すると、フリオ失踪事件を追う番組を観た人から、テレビ局に情報が寄せられる。
フリオによく似た男が、海辺の高齢者施設にいる、と。
そうしてこの映画は、いよいよ本作のテーマ――失ったものを取り戻すことはできるのか、希望は取り戻せるのかという、人生を巡るテーマを探求していく。
『ミツバチのささやき』の6歳の少女が…
長編第1作『ミツバチのささやき』で6歳の少女アナの目を通し、詩情豊かに世界の神秘をつづったビクトル・エリセが、ここでは70代の老人を主人公に、冷徹に人生の悲哀を見つめている点が感慨深い。
そして人生を見返すようにして、エリセはいまここでキャリアの円環を閉じようとしている。それは本作のタイトルからもあきらかだ。
『ミツバチのささやき』には、世界中の人々の心をとらえた、ある有名なシーンが存在する。
少女アナは街の移動映画館で『フランケンシュタイン』を観た夜、姉のイサベルから教えられる。フランケンシュタインは実は精霊で、友だちになれば話ができるのだ、と。そして多くのできごとを経験し、少し成長した彼女は目をとじて、「私はアナよ」と精霊に呼びかける。
『瞳をとじて』というタイトルは、この名場面での目をとじたアナの姿と呼応している。
いや、それだけではない。本作にはアナ役を演じたアナ・トレントが、『ミツバチのささやき』から50年を経て、再びアナ役で出演している。そして「私はアナよ」と呼びかけるシーンを、以前とはまったく違う、しかしながら観る人の心をひどくゆさぶるかたちで再現する。