日本では、約1300万人が慢性腎臓病に苦しんでいると言われている。毎日新聞記者の倉岡一樹氏も、慢性腎臓病を発症した1人だ。末期腎不全を患った彼は、2019年夏に母親からの生体腎移植を受けた。闘病生活は、死の淵をも垣間見るほど壮絶だったという――。
ここでは、倉岡氏が闘病の日々を綴った『母からもらった腎臓 生体臓器移植を経験した記者が見たこと、考えたこと』(毎日新聞出版)より一部を抜粋。なぜ彼は、母親からの生体腎移植を受けることになったのだろうか?(全2回の2回目/1回目より続く)
◆◆◆
体中をひっかき、背中や腕などがミミズ腫れで真っ赤に
私のマイカーでの指定席は助手席だ。
2018年11月22日、この日も妻にハンドルを委ねて30分ほど走っただろうか。小高い丘に、白く大きな建物が見えた。聖マリアンナ医科大学病院だ。紹介状を手に、症例数が例年15件ほどの腎移植外来に向かった。
車を降りると、全身のかゆみが猛烈に襲ってきた。腎機能が15%を切ると「末期腎不全」と呼ばれ、人によっては強いかゆみが出現する。ひとしきり体中をひっかき、背中や腕などあちらこちらがミミズ腫れで真っ赤になった。妻は「しんどいね」と目を潤ませる。毎日のように家でその姿を見る妻と娘のつらさを思い、やりきれなくなった。私は病院正面玄関のマリア像に祈る。「これ以上、心配をかけませんように」
腎泌尿器外科で受け付けを済ませると、看護師の服ではない若い女性が歩み寄ってきた。移植コーディネーターだった。丁寧に腎移植の説明をしてくれた後、こう聞かれた。
「倉岡さんは、生体腎移植と献腎移植、どちらを選ばれるおつもりですか」
横にいる妻の機先を制するように答えた。
「献腎移植です。血液透析をしながら待ちます」
コーディネーターはうなずく。妻からは絶対にもらわない、という意思は固まっていた。「倉岡さん」。名前を呼ばれた。「無理しないでね」。妻の言葉を背に1人で診察室に入ると、女性医師が座り、後ろに男性医師が立っていた。腎臓内科医の寺下真帆医師と主任教授だ。共に表情も口調も柔らかいが、話の内容は厳しかった。