1ページ目から読む
5/7ページ目

なぜ次夫は“家族殺し”を決めたのか?

〈1.太蔵とつねは家督を長男・基夫に相続させ、家業を次男・次夫に承継させる意思で、次夫は(旧制)龍野中学を中退して家業に従事するようになった

2.つねは性格が厳格、理知的で、家業の経営、生計の処理や子女の教育など、ほとんど(彼女の)意のままに決定される状況だった

3.つねは次夫の人となりをよく思わず、常に他の子どもたちを偏愛し、次夫だけを疎んじて冷遇。太蔵も黙視して顧みなかった。このため親子の間の感情は離れ、生来残忍で粗暴な性格の次夫は、徐々に親に対する敬愛を喪失。反抗心を抱いて遊び怠け、わがままに振る舞うようになり、酒色にふけって素行が修まらなかった。従順な性格の妻・菊枝はその間に立って苦慮していた

ADVERTISEMENT

4.太蔵夫妻は、次夫の行いから、妻子を持ち、30歳を過ぎても家業を任せられず、行状を監視し、ますます金銭やその他の自由を束縛した。そのため、次夫は両親の仕打ちに憤慨。財産についての欲望が徐々に強くなり、早く家業を継いで全権をつかみたいという思いを隠し、ひそかに機会をうかがっていた〉

「惨劇の高見一家」。後列の右から2番目の男性が次夫(大阪時事より)

 元検事の小泉輝三朗『三十九件の真相』(1970年)によれば、次夫は仕事には精を出さず、茶屋遊びをしては、麹や米を親に隠して売っていたという。ここまでで事件の前提となる家族関係が分かる。それを犯行に向かわせたきっかけは1923(大正12)年9月1日の関東大震災だった。