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診察風景

希死念慮とはーー「この世界から隠れたい」と思うまで

内田 手記の中では、うつの状態が重くなっていくのを感じられる過程も書かれていましたね。当時の奥様に「あんなに大好きだった音楽を楽しめなくなったのはおかしいよね。」と言われたことがうつの重症度を物語っていた、との記述が大変印象的でした。好きだったはずのことも楽しくない、楽しめないというのはうつの大きな特徴ですね。

浜田 はい、大好きだった音楽会も楽しめなくなりました。治療中でも鬱々として音楽会に行きたいと言うと、家内が一緒にニューヨークに日帰りで連れて行ってくれたのを覚えています。

 主に天井桟敷でしたが、メトロポリタン・オペラで未見だったオペラの『ボリス・ゴドゥノフ』、モーツアルトの『魔笛』などを見ることができました。また、ベートーヴェンのピアノ協奏曲を全部弾くというシリーズを聴きに行ったこともあります。しかし、うつ気分の中では、アバドとポリーニという大演奏家の演奏を聴いても、ただ機械的に演奏しているように聴こえてしまった。

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 僕の趣味は童謡やクラシックの作曲なのですが、後に自作集のCDを作っていただいた中野雄先生は、大演奏家でも時々、音楽的センスから言うと冴えない演奏をすることがあると。特にその2人は浮き沈みが高いから、自分のせいだけと考えないほうがいいと後になって言われました。しかし、音楽も楽しめなくなってしまったのはその通りで、「これは重大な事態だ」と自分でも気づくきっかけだったんです。

 コネチカット州にノーウィッチという温泉がありまして、日本の温泉とはずいぶん違って、ゆっくり浸かって気分が豊かになるという趣ではないんですが、家内がうつに効くかもと連れて行ってくれました。しかし、ニューヘイブンに戻る帰り道ではまた講義が不安で暗雲に包まれた気持ちになってなかなか心が晴れない。次第に手紙を開けるのさえ、悪い知らせがあるのではないかと怖くなって、ごく限られた親しい人を除いては付き合いを避け、「この世界から隠れたい」という気持ちが強まってきました。

 そんなことでだんだん疲れてきて、あるとき夜思い余って一人になったら、自分の頭が破裂しそうだと感じました。これ以上この生活を続けていると自分がだめになるという恐怖にさらされました。自分はいくつもの間違いをおかして人生を台無しにしてしまった、子どもたちや家内の反対にもかかわらず安定した有名大の地位もなげうって間違った道を選んでしまった、そんな間違いをするなんて自分はダメな人間だ、という思考が止まらなくなった。

 ジェームズ・トービンという私の先生は、単にノーベル経済学賞授賞者であるだけでなく、経済学史上に残る大先生で、僕のことを心配しては食事に誘って慰めてくれたりもしました。しかし、料理屋で近くの食卓に座る人が、わたくしの講義を批判してくる大学院生に妄想で見えてくることがありました。そうすると、いつしか自殺したいという思いが出てくる。この苦しみはなかなか終わらない。どうしたら無事に自殺できるかまで考えるようになったんです。

内田舞(うちだ・まい)小児精神科医、ハーバード大学医学部准教授、マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長、3児の母。2007年北海道大学医学部卒、2011年イェール大学精神科研修終了、2013年ハーバード大学・マサチューセッツ総合病院小児精神科研修修了。著書に『ソーシャルジャスティス 小児精神科医、社会を診る』(文春新書)、『REAPPRAISAL 最先端脳科学が導く不安や恐怖を和らげる方法』(実業之日本社)、『まいにちメンタル危機の処方箋』(大和書房)。

 

浜田宏一(はまだ・こういち)1936年生まれ。元内閣官房参与、イェ―ル大学タンテックス名誉教授、東京大学名誉教授。専攻は国際金融論、ゲーム理論。アベノミクスのブレーンとして知られる。主な著作に『経済成長と国際資本移動』、『金融政策と銀行行動』(岩田一政との共著、エコノミスト賞、ともに東洋経済新報社)、『エール大学の書斎から』(NTT出版)、『アメリカは日本経済の復活を知っている』(講談社)ほか。

うつを生きる 精神科医と患者の対話 (文春新書)

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内田 舞 ,浜田 宏一

文藝春秋

2024年7月19日 発売