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なぜ大谷翔平の「二刀流」を信じたか

 そして、僕は『論語と算盤』を傍らに携えるようになったことをきっかけに、様々な中国古典を好んで読むようになりました。

 中国古典に親しんでいると言うと、「なぜ古典なのか」とよく聞かれます。答えははっきりしています。長きにわたって読み継がれてきた古典には、それだけ多くの時代、多くの人たちにとって普遍的な哲学や思想のエッセンスが、故事やエピソードとともに語られているからです。

栗山英樹氏 ©時事通信社

 それこそ『易経』などは、3000年前に書かれたと言います。そのエッセンスに触れていると、「こんな大昔の人に、なぜこれほどのことが分かっていたのか」と驚かされるものがあります。

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 そして、古典の面白いところは、それが普遍的な内容であるだけに、例えば『論語』でも「教養をつけよう」というつもりで何となく読んでいると、「当たり前のこと」が書かれているように思えてしまう。ところが、人生に迷いを感じたとき、僕の場合は監督という「指導者」の立場を得たとき、自分の置かれた環境に即して目的を持ちながらその言葉に身を委ねると、非常に学びが多いのです。

「二刀流」を貫いた大谷翔平 ©文藝春秋

 例えば、大谷翔平の「二刀流」を信じたこともそうでした。周囲の「常識」というものは「その時」の常識に過ぎず、本質的には「自分が本当に正しいと思ったこと」の中に真実があるのだと、僕は中国古典を読んで学んだ。ですから、どんな一冊でもいいので、歳月を経て風化に耐え抜いた古典を選び、一生懸命に読んでみることをお勧めしたいですね。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「僕は中国古典を読んで大谷翔平の「二刀流」を信じた」)。