避妊のために薬を飲み、若くして亡くなった「からゆきさん」も
シンガポールのからゆきさんが「避妊のために薬を飲んでいた」という証言もある。現地で亡くなったからゆきさんが葬られているシンガポール日本人墓地公園で長年ガイドをしているという女性が、活動を紹介する動画で、現地の元からゆきさんから聞いた話として、「避妊のために薬を飲み、体を悪くして若くして亡くなる女性がいた。若くして亡くなったのは自殺じゃない。自殺をする自由もなかった」と明かしている。
日本では現在でも中絶方法としては手術が主流(経口中絶薬が2023年4月に承認されたが、処方は一部医療機関にとどまる)で、母体への負担が大きいと指摘されているが、明治期の中絶の危険性はもちろんその比ではなく、命がけだった。シンガポールでも避妊などのために薬が用いられて死に至った女性がいたとみられ、中絶・避妊が女性の心身へ及ぼす影響は非常に大きかった。春代は命は助かったものの、インタビューで動揺した様子がみられることから、晩年まで心の傷はいえなかったようだ。
シンガポールでゴム園を経営、ホテルの女性支配人として成功
フォックスは春代を残し、1914年に始まった第一次世界大戦に出征する。
フォックスは、「自分は戦争で死ぬかもしれないから」と春代に日本に帰るよう促したが、春代は「働いてもっとお金を稼ごう」とシンガポールに残った。26歳頃、フォックスから得た資金などでゴム園を購入し、中国人らを雇って運営する。その儲けを元手に、30代半ばでホテルを建て、経営に乗りだす。嶽本氏が指摘するとおり、シンガポールなどでの日本人の活動についてまとめた『南洋の五十年シンガポールを中心に同胞活躍』(南洋及日本人社編、1938年)の人名録には春代の実名が記載され、ホテルを経営していたとの記録が残っている。
事業者として成功を果たした春代だが、恋愛小説のようなエピソードも明かしている。「三十代まできれいだった」という春代は、フォックスがいない間に日本人男性から熱心に言いよられたという。仲立ちからしつこく迫られて断り切れず、「フォックスが戦争から帰ってきたら別れてもよい」と言われて、その男性の「内縁の妻」になったが、数カ月後にフォックスが生還する。約束どおりその男性と別れ、ふたたびフォックスと暮らし始めるが、男性との関係を知ったフォックスから突然別れを告げられる。フォックスはイギリスに帰国する。春代は、その帰国の前夜にフォックスから、「戦争中、敵兵と一騎打ちとなった場面で春代の姿が見え、導かれて敵兵に勝つことができた。春代ともう一度暮らすことが夢だった」と言われたと語る。