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妊娠するも中絶と不妊手術を求められ、後年まで心の傷に

〈おれは大喜びしてます。おめでとう、みたような気持ちを抱いとったわけですたい〉

〈ところが、ある朝、相談があるちゅうとですもん〉

〈おろせっていうとですたい〉

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〈今度は殺してしもうたとよ。子宮をば〉

中絶や不妊手術は今も昔も女性にとって非常に重い決断だ。ここまで苦労を重ねてきた春代には、妊娠は幸せを実感できる数少ない出来事だったに違いない。だから、70歳を過ぎて振り返っても、言葉の端々に深い苦悩や動揺がにじむ。語られた内容を分析している嶽本氏も、「思い出したくない経験を吐露しているからか、それまでの受け答えはしっかりしていたのに、このときの語りは意味を把握するのが難しいほど錯綜しています」と指摘する。

ちなみに、その当時の中絶や不妊手術はどのように行われていたのだろうか。シンガポールの医療事情は不明だが、日本の明治期などの手法を参考までに紹介する。江戸時代の中絶方法を調べた中央社会事業協会社会事業研究所編『堕胎間引きの研究』(1936年)によると、堕胎は平安時代から行われ、江戸時代にさかんになった。

江戸時代以降も堕胎の方法は、女性にとって危険すぎた

江戸期の方法は①薬を飲む②機械的方法(施術)の二種類があり、薬は毒薬を飲ませて中毒症状を起こさせるというもので、「月水早流し」などの名称で民間で売買されていた。施術は、腹部に強い振動を加える、腹部を圧迫する、子宮に棒状のものを差し込む、といった方法だった。

論文「同意堕胎罪・業務上堕胎罪における母体への『同意傷害』」(田中圭二、1994年)によると、明治期も江戸期に続き薬が使われたが、効果が薄かったため、手術が主流だった。薬の成分は不明だが、下剤または中毒薬で、なんらかの草や根など、ある種の有毒菌類だったとされる。手術は、子宮口からカテーテルなどを挿入して子宮内膜から卵膜をはく離させて陣痛を起こし、排出させる方法が主に用いられていた。医師以外の者が手術をすることもあったという。薬の場合は中毒によって、手術は消毒法が十分でない中で母体を損傷するため、死に至る可能性は十分あったといい、いずれも命の危険をともなう方法だったと言えるだろう。