『陥穽(かんせい) 陸奥宗光の青春』(辻原登 著)日本経済新聞出版

 第二次伊藤博文内閣の外務大臣として、不平等条約の改正に取り組んで治外法権の撤廃に成功、日清戦争の難局を乗り切った陸奥宗光。「日本外交の父」と称される彼は、どのような前半生を送ったのか? 本書は、陸奥の若き日に着目した史伝風小説である。

 明治11(1878)年6月、元老院で要職に就いていた陸奥宗光は、前年の西南戦争に乗じた「政府転覆計画」に加担した罪で逮捕される。禁獄5年の判決が下り、山形監獄へ送られた。物語は時を遡り、陸奥の前半生を辿っていく。

 紀州(和歌山)藩士、伊達宗広の子として生まれた陸奥は9歳の時、父の失脚で城下から追放された。高野山の学僧になり、江戸に出て、儒学者の安井息軒に学ぶ。京に上って勝海舟の海軍塾に入門し、坂本龍馬の海援隊へ。若き日の伊藤博文やアーネスト・サトウと交友を深める。

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 士族なのに、武張る人間が苦手で、学問の道を志す。才気煥発で龍馬に愛されるが、一部の塾生から“小利口な小才子”と陰口を叩かれ、蛇蝎のごとく嫌われた。そんな陸奥の若き日は波乱万丈だ。満53歳で死去した陸奥の生涯は、開国と武家支配の崩壊、近代化と立憲政治の萌芽という幕末維新史と重なる。国の枠組みがドラスティックに変わる中にあって、勝や龍馬、西郷隆盛ら、それぞれの世界観は多様だ。人々の人柄や転機を捉え、それらが連なりあって動く歴史を描き出す筆致は見事で、胸がすくほど。ことに陸奥の師、龍馬の広い視野と企図を、陸奥との関係性から描いてスリリングである。

〈龍馬の情熱の行方が、政治的野心にないことは明白である。彼の志向は、海洋へと展開する自由不羈(ふき)の精神の活躍する場を準備する組織の構築にあったのだ〉。しかし、歴史を通貫する“支配制度の性質”によって、新政府は龍馬の構想とは違う方向に進んでいく。横死した龍馬が見られなかった時代を生き始めた陸奥は、過ちを犯す――。

 青春とは、どんな時期を指すのだろうか。親や先達の庇護を頼みに、理想を追うことができる日々だと思う。〈父の死、それは陸奥の青春の終焉を意味していた。木戸の死は、陸奥の「立憲民主政体樹立」という「理念」の敗北を告げていた〉。9歳で追放されて以来、進む道を模索し続けた陸奥の前半生は、現代の我々にとっても示唆に富む。また本書は、「明治維新とは本当はどんなものだったのか」を新たに問う。道半ば、未熟な陸奥を通して、読者は19世紀の日本に立ち戻ることができる。

 獄中生活と留学を経て政府に復帰した陸奥は、政治家になり、世界と華々しく渡り合った。礎となった前半生の陸奥は人間くさくて、本書は歴史小説の醍醐味を味わえる一冊だ。若き日の苦難と刻苦勉励が描かれていて、成長小説、青春小説としても優れている。

つじはらのぼる/1945年、和歌山県生まれ。90年「村の名前」で芥川賞、99年『翔べ麒麟』で読売文学賞。『遊動亭円木』『許されざる者』『闇の奥』『韃靼の馬』『冬の旅』『卍どもえ』『隠し女小春』など著書多数。2022年、文化功労者。
 

あおきちえ/1964年、兵庫県生まれ。フリーライター・書評家。日本推理作家協会会員。読売新聞、東京新聞などで書評を担当。