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「世俗性」に戻ってくる

 千葉 一回反発を抱いても、やっぱりそれにリアリティがあるなと感じて、全面肯定するわけではないけれども、ある程度、受け容れていく。僕もそういう経過をたどってきましたから。ただ、ひとこと付け加えておくと、僕が「世俗性」と言うときには、「家族的共同体」を意味しているわけではありません。「世俗性」は「日常性」や「内在性」といってもよくて、それと対比させているのは、「超越性」です。ですから、世俗性と超越性の対立は、家族的共同体と個人のそれではありません。

 河合隼雄の話を僕なりに言い換えると、西洋では問題が起きたときに対立をはっきりさせて、より高次の倫理を追求することで解決しようとするけれども、日本ではその手前の美的な次元で、よかれあしかれ非常に微妙なかたちでの秩序を作ることで解決しようとする。でも、それは何となく根拠が曖昧な儀礼的な秩序を作って、それに皆を従わせることになるから、批判すべきときもあるでしょう。

 東畑 そうですよね。

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 千葉 それに対する批判も必要ですが、それを全部なくすと、相当殺伐とした世界になるのではないでしょうか。ネット上での対立や身も蓋もない効率化が、ある種の美的な儀礼性を無駄だ、不徹底だ、と批判してなくしていったことで、すでに相当寒々しい世界が出現している。だから、対立を明らかにして白黒はっきりつけるのではなくて、美的なものの周りを巡回しながら、会話や食事を愉しむ時間を共有することにも、深い社会的な意味があるのではないでしょうか。お花見に行く、同じ絵を見て、みんなで語り合うといったことをもっとできた方が、ギスギスしていない、より豊かな社会を築けると思います。

「センス」を磨くには?

 東畑 芸術と生きることがひとつながりに書かれている『センスの哲学』を読むと、芸術によって生き方を変えてみようと思わされるのですが、それにはまず芸術を「意味」ではなく、「リズム」の次元で捉えることができなければならない。

 こういうことについて、たとえば、子供のときからいろんなジャンルの芸術に親しむ必要があるんじゃないかと思う人も世の中にはおられるかもしれません。千葉さんご自身はそのような文化資本に恵まれなくても、あとから形成できると書いていて、そこは読者が知りたいところなのではないかと。そのための第一歩を踏み出すためには、どうすればいいのでしょうか?

 千葉 もちろんある程度、色々なものを見なければなりません。でも同時に芸術作品がどのような「リズム」によって成立しているのかという芸術の仕組み自体を学習することが「センス」を磨くための近道になると思います。文化資本に恵まれた人は、量を鑑賞し、その「ビッグデータ」から芸術の仕組みを抽出し、「センス」を身につけていくわけですが、その抽出された結果を先に学んで芸術の体験にフィードバックすることもできる。

 芸術家のいわゆる「作家性」をリサーチする場合も全部を見たり、読んだりする必要はありません。部分を見れば、そこに全体の構造が圧縮されているはずだからです。そこでその作家ならではの構造を掴めば、今度はリバースエンジニアリングの発想で、その作家のような作品を作るにはどうすればいいのかが見えてくるはずです。こうやって説明すると、簡単に聞こえるかもしれませんが、決してそうではありません。でも、練習を重ねていけば、だんだんできるようになるはずです。