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センスを育てるとは、人生の機微を味わう回路を作ること

 繰り返すと、文化資本の形成には「多様なものに触れるときの不安を緩和し、不安を面白さに変換する回路を作る」効用があるわけで、それは本文中の言葉で言い換えれば、「どこかに「問題」があること」をむしろ楽しむことができる回路が開かれるということです。これは人生の機微を味わうことに通じており、もし教育がそこに関与できるとすれば、こんなにうれしいことはないと、教室で日々子供たちと過ごす僕などは思ったのです。

評者の鳥羽和久氏

 本書では、「センスがある」ことと「センスが無自覚」であることが対置され、ラウシェンバーグの絵画などを例に、「センスに自覚的になる」方法が具体的に提示されています。だから、これを読んで、美術館における絵の見方が変わったり、音楽や絵画にとどまらずあらゆる造形や文学の中に「うねり」と「ビート」を伴ったリズムを見出したりと、芸術鑑賞をとおして実際に「センスに自覚的になる」人が多出するでしょう。

 しかし、本書が伝える効果は芸術だけではなく、日常生活にも直結しています。生活の中にはじめから当たり前のようにある「芸術と生活をつなげる感覚」に気づくことによって、僕たちの日常生活にささやかな変革がもたらされるのです。ラウシェンバーグの絵画や保坂和志の小説が登場するのも、その「センス」を磨くための実践的な演習の一環です。

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感情的な共感が優先されるネット空間。そこで生まれがちな「傷の共同体」

 現在のネット空間がいわゆる脊髄反射的であり、感情的な共感が優先されている点については、多くの人が指摘しています。ネットというツールの普及によって、自分と似た「傷」を持つ人を簡単に見つけられるようになり、共通の敵を見つけて攻撃性を高める「傷の共同体」が生じやすくなりました。こうして、共感の共同体に執着する中で、新しい社会的正しさに自分の痛みを重ね、自身のアイデンティティに正当性を与えようとする人が増えました。それはしばしば、彼らが本来は憎んでいたはずの権力構造を内在化してしまっているかのようにも見えます。

 この状況下で、いつしか自分のうらみつらみが他人に吸収され、個々の傷が他者に乗っ取られても気づかない状況が生まれます。もしくは、気づきながらも、その自己疎外の苦しみを他者への攻撃として発散し、自らの痛みを意識しないようにさえしてしまいます。

 こうした、自分独特の感覚を手放した後の「傷」は、本当にその人のものなのか疑問が残ります。こうして個々の心の痛みさえも、他者の視線や目的のための手段となり、空洞化してしまうのです。文学やエンタメの世界でも、社会的正しさに自分の傷を重ねた作品が増えているのは、まさにこの現象の反映でしょう。