1995年、東京協和信用組合破綻に関する背任容疑で東京地検特捜部に逮捕された、イ・アイ・イーインターナショナル社長の高橋治則。天皇家にもつながるという名門で、花嫁修業中のお手伝いさんがいるような裕福な家庭に生まれ、慶応幼稚舎から慶応大学に進み、日本航空という当時の超一流企業にコネで就職。資産は1兆円を超え、のちに“環太平洋のリゾート王”とまで呼ばれた男の最期とは…。ジャーナリストの西﨑伸彦氏の『バブル兄弟 “五輪を喰った兄”高橋治之と“長銀を潰した弟”高橋治則』より一部抜粋してお届けする。(全4回の最終回/最初から読む)
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告別式にデヴィ夫人や千昌夫の姿も
西麻布にある曹洞宗の永平寺別院長谷寺で行なわれた告別式には、約1000人の弔問客が列を成した。
受付を担当した人物が振り返る。
「高橋さんは名だたる政治家の方々とお付き合いがありましたが、葬儀で姿を見たのは当時、自民党幹事長代理だった安倍晋三さんくらいでした。当日は、『香典は一切受け取らない。名簿だけを作って欲しい』と頼まれていました」
生前、治則と親交のあったデヴィ夫人や千昌夫の姿もあった。会場にはベートーベンの交響曲「英雄」が流れ、厳かな雰囲気が漂っていた。喪主を務めた長男、高橋一郎は、父親の突然の死に戸惑いつつ、挨拶に立った。
「父はよく家族に『人間は死ぬ1年前が幸せかどうかで決まる』と話していました。父は死ぬ1年前、幸せだったと思います」
会葬のお礼状には、一郎を筆頭に治則の家族の名前が並び、最後に「兄 高橋治之」と書かれていた。この葬儀を事実上取り仕切っていたのは、当時電通の常務取締役を務めていた実兄の治之だった。
通夜・告別式の遺族席には、高橋兄弟と関係の深い赤坂の料亭「佐藤」の女将の姿もあった。かつては元首相の佐藤栄作や田中角栄も通った老舗料亭として知られ、移転後に経営を引き継いだ女将が、約10億円をかけてビルを新築。その際、治則の東京協和信組が資金を貸し付けて支援しただけでなく、上階には、半ば治則専用のサウナ部屋も設えられていた。
この料亭を舞台に、バブル絶頂期も政治家や大蔵官僚などを招いた宴が夜ごと繰り広げられた。治則は、料亭の各部屋を行き来しながら、一日に2つ宴会を掛け持ちすることも決して珍しくはなかった。
「ノリちゃんが、どこで死んだか知ってる?」
参列者のなかに見知った女性の顔を見つけた「佐藤」の女将は、手を振り、歩み寄って、こう話し掛けた。
その女性は、治則の22歳歳下の愛人、北山裕子(仮名)だった。