「許せねえ」「話をつけてくる」怒った稲川が、児玉の家に乗り込むことに…

 稲川は、カッとなった。

〈いくら児玉でも、許せねえ〉

 それでなくても、自民党筋から、あれほど今回、博徒、テキヤの親分たちに声をかけて応援を頼んでおきながら、「ご苦労さん」の一言もなかった。そのことで、全国の博徒、テキヤたちは怒りの声をあげているときであった。

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 稲川は、こみ上げてくる怒りを抑えかねたようにしていった。

「児玉のところに、乗り込む! 話をつけてくる」

 喧嘩相手として、不足はなかった。

 彼の全身の血が、若い頃のように熱く滾っていた。

“日本一の右翼”と言われた児玉誉士夫 ©文藝春秋

「今日は誤解を解いていただきたい」“児玉の右腕”が稲川の事務所を訪ねてきた

 それからまもなく、岡村吾一が、稲川が当時事務所代わりに使っていた「横浜ホテル」の322号室に稲川を訪ねてきた。岡村は、黒縁眼鏡の奥の鋭い眼をぎらりと光らせていった。

「稲川さん、今日は誤解を解いていただきたいと思ってやってきました」

 岡村といっしょに菊池庸介もきた。やせた、眼つきの鋭い男であった。

 稲川が児玉邸に乗り込む、という情報を聞き、児玉の右腕である岡村が稲川に会いにきたのであった。

 岡村吾一は、昭和10年から終戦までは、上海の児玉機関で活躍した。児玉機関の東京責任者でもあった。敗戦後も、児玉のために動き、芸能界の陰の顔役としても君臨していた。

 この当時は、埼玉、群馬の博徒を結集して北星会を結成する準備に動いていた。児玉に危険のあるときには、身を挺して守る男であった。また、岡村のまわりには、彼のためにいつでも命を投げ出す男たちが何人もいた。

 菊池庸介は、昭和17年9月3日、丸の内のジャパンタイムス社裏の道路上で、尾崎士郎作の『人生劇場』に出てくる“飛車角”のモデルといわれた石黒彦市を射殺したことで名をあげていた。石黒は、菊池の兄貴分岡村吾一と対立していた。菊池は、尊敬している兄貴分のために、石黒を射殺したのであった。

 菊池は懲役6年の刑を受け、出所した後、丸ビルに事務所を開き、児玉と盟友の北海道炭礦汽船社長の萩原吉太郎の系列会社である鉱業会社を経営していた。菊池も、児玉にもしものことがあれば、いつでも命を捨てる雰囲気を漂わせていた。

 岡村がいった。

「噂によると、オヤジが、6億円ものカネを持ち逃げしたようなことをいっている者があるそうだが、そのことについてぜひ誤解を解いてもらいたい。一度オヤジに会っていただきたい」

 稲川は、岡村に答えた。

「近いうち、必ずうかがいましょう」

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