むしろ、東村山の知名度を高めたのは志村けんに他ならない。詳しくは語らないが、そんな恩人の像が立っている東口。歴史的経緯はともかくとして、少なくとも現在にあっては東口が東村山駅の実質的な“正面”になっているのだろう。
周辺の様子を見ても、東口は西口ののどかさとは一線を画す。駅前からまっすぐ東に延びる目抜き通りは4車線の大通り。それと駅前で交差する府中街道沿いにはイトーヨーカドーをはじめとする大型商業施設や飲食店が建ち並ぶ。人通りもクルマ通りも実に盛んで、いかにもベッドタウンの中心らしい。
明治時代の名所案内にこっそり書かれていた“ヒミツ”
府中街道を少し南に歩くと、郵便局の先で「鷹の道」と呼ばれる通りと交差する。なんでも、尾張徳川家の鷹場だったことから名付けられたという。
府中街道も鷹の道も2車線道路で、それでいてやたらとクルマの量が多い。あげく、府中街道のさらに南には西武新宿線のフミキリがある。おかげでどうしたって渋滞が避けられないのだろう。訪れたのは真っ昼間だったが、朝夕の通勤時間帯はどんな様子なのだろうか。
そう思いながらフミキリの手前まで5分ほど歩き、左に折れた先に東村山市役所がある。1889年に周辺諸村が集まって東村山村となり、1942年に東村山町、そして1964年に東村山市となった。
現在の人口は約15万人。吉祥寺のある武蔵野市、また国分寺線のターミナルである国分寺市よりも多い、押しも押されもせぬ立派な郊外の住宅都市だ。
東村山市が住宅都市になったのは、言うまでもなく戦後のことである。この地域は、歴史のほとんどを武蔵野台地上の畑作地帯として過ごしてきた。
府中街道はその前身が鎌倉街道で、鎌倉時代末期には新田義貞が幕府に反旗を翻して進軍した道でもあったという。そして、ちょうど東村山のあたりで北条氏の軍勢と激突し、合戦になっている。その頃から明治に入っても、本質的には変わらない風景が広がっていたのだろう。